「創業メンバーの役割は自分たちよりも優秀な人たちを巻き込むこと」
株式会社マナボ
取締役 廣田達宣

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【略歴】

慶應義塾大学経済学部出身。営業やシステム開発を経験したあと、「いま聞ける、すぐ理解る。スマホ家庭教師mana.bo」事業立ち上げに携わる。2013年春に㈱マナボ取締役に就任。システム開発、財務、営業、法務、UIデザイン、広報、採用、ユーザーサポートなどを歴任。

Q:学生時代はNPOで活動されていたそうですが。

 AIESEC(アイセック)というNPO法人に参加し、活動していました。アイセックは世界100ヶ国以上で活動しているNPO法人で、海外インターンシップ生の交換事業を運営しています。日本人の大学生を海外企業に、海外の大学生を日本企業にインターン生として紹介するのが主な活動内容ですね。
 僕は大学2~3年生のときに慶應支部の代表を務めていたのですが、当時の慶應支部は国内24支部の中で最も事業成果が悪い状況でした。そこで、世界中の支部のどこもやっていなかった新しい取組みを始めたのです。最初は慶應支部も含めて日本中のメンバーから反対されましたが、結果的には2年間で事業成果が7倍に伸び、2年後にアジア太平洋地域でNo.1の支部として表彰を受ける土台を作ることができました。

Q:アイセックに参加されたきっかけは何かあったのですか?

 きっかけは高校3年生の夏に参加したサマーキャンプです。ピアソン・カレッジというカナダの大学が開催しているサマーキャンプで、約40ヶ国からいろいろな人が集まって環境問題や社会問題をイシューとして扱っていました。思春期の年代の子供って、物事に対して穿った見方をしますよね。当時はそういう空気の支配する日常にどこか息苦しさを感じていたのですが、サマーキャンプの参加者にはそういう若者は1人もいなかったのです。皆が真剣に議論している姿を見て、心から「この人達は何てかっこいいんだろう」と思いました。
 マナボのお客さまは受験生が多いですが、実は僕自身は受験を経験していません。慶應の内部進学だったので、部活動で野球をしながら自由気ままに過ごしていたのです。しかしサマーキャンプに参加したことで、「自分は18年間どれだけものを考えずに生きてきたのか」と痛感しました。そしていろいろな問題に目を向けるようになって国際協力やボランティア活動に興味を持ち、大学でアイセックに入りました。

Q:NPOやボランティアからベンチャービジネスに視点が切り替わったのはなぜですか?

 先ほどお話しした慶應支部での取組みがきっかけです。新しいものを作り出し、それを短期間で大きくしていくのはとても大変ですが、非常にエキサイティングな経験でした。しかしNPO法人の一支部では戦略の自由度に限りがあり、また「所詮は学生レベルなんだ」と感じることが多々ありました。そこで、もっとレバレッジをきかせてビジネスの世界でチャレンジしたいという思いが芽生えたのです。
 もう1つの理由は、自分の適性です。アイセックでは、各大学支部の代表が日本法人全体の経営に関する意思決定を担っていました。その役割を巨大組織の経営陣、慶應支部代表としての役割をいちベンチャー組織の長と例えると、僕は後者に面白さを感じたのです。それに、スピード感を持って仕事を進めていく方が自分の肌に合っていました。そういった背景があって大学在学中にマナボを始め、そのまま就職せず卒業して現在に至ります。

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Q:アイセック時代からマナボ創業までには、紆余曲折があったそうですね。

 そうですね。そもそもの発端は、活動をする中でとある大失敗をしてしまったことです。アイセックでは毎年、次の年の日本支部の代表を決める選挙を行います。3年生の時、僕は次年度の日本代表に立候補したのですが、色々なプレッシャーに耐え切れず選挙から逃げ出し、大敗してしまったのです。その時の挫折感は凄まじく、半年ほどひきこもって寝るかアニメを見るかという生活をした後、インドを2ヶ月放浪しました。とにかくどこかに逃げ出したくなり、画面の向こうの世界とインドに逃げたという感じです(笑)

Q:インドではどのようなことを学びましたか?

 表現するのが難しいのですが、インドでは「リアル」を感じました。現地でできた友達の家に行ってみると、電気は通っておらず、壁は土で固められていました。「チキンカレー食べる?」と聞かれて「食べる」と答えると、「じゃあチキンを捕まえに行こう!」と、放し飼いにしている鶏を捕まえるところから始めるわけです。日本で暮らしているとあまり意識する機会はありませんが、食べるという行為の裏には命を奪うという営みがあるという現実を痛感しました。
 もう1つエピソードがあります。インドでサルモネラ菌に罹ってしまい、1週間ほど生死の境をさまよったのです。何とかタクシーで政府が運営している無料の病院に連れて行ってもらうと、そこにはさまざまな層の人が集まり、野戦病院のような状態になっていました。結局プライベートの病院に行って一命をとりとめたのですが、その時に人生で初めて「死」を感じました。
 僕は慶應の内部進学というお坊ちゃん育ちですし、NPOの世界にいたこともあり典型的な理想論者でした。しかし、インドで見たものは本当にリアルで、理想論が通用するような世界ではありませんでした。しっかりと教育を受けたエリートのインド人もいれば、その日の糧を得るために人を騙しながら生きているインド人もいます。人生にはいろいろな生き方があるという実感は、自分はどうやって生きていくのか、何をすべきかを深く考えるきっかけになりました。

Q:そして、エンジニアとしての道を選ばれたのですね。

 そうです。インドへの逃避行を経て自分の生き方を見つめなおした結果、たどり着いたのは起業でした。アイセック時代の「新しいことを始めて大きくしていく」という経験が、僕の中に強く残っていたのです。ただそれまでビジネスを立ち上げ運営した経験がなく、具体的なイメージを持っていませんでした。そこでまずは修業期間として、できるだけ規模の小さい創業期の会社に就職して修行しようと考えたのです。しかしそのタイミングで留年が決まったため、就職はせずに自力で2年間経験を積むことにしました。お金・経験・実力・ネットワークを持っていない自分でも勝算があるビジネスはなんだろう…そこで辿り着いたのが、小資本で始められて消費者感覚が重要になるBtoCのインターネットサービスです。

 そういった企業で今までにないモデルを作るのであればもう一つ、軌道修正のスピードが勝利の鍵になります。そのためにはエンジニアリングが必要不可欠ですよね。僕は、良いエンジニアを集めるためには経営者自身がエンジニアリングの経験があることがとても重要なのではないかと考えました。僕がエンジニアの立場であれば、「僕はこんなものが作りたい、でも僕は作れないので代わりに作ってください」という人よりも、「これを作りたいから作ってみた、けどうまくいかないから力を貸してほしい」というスタンスの人についていきたいと思います。そこでプログラミングの勉強を始め、いくつかのスタートアップ企業でのインターンをしていました。

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Q:その後、マナボに参画されるまでの経緯をお聞かせください。

 三橋(三橋克仁/株式会社マナボ代表取締役社長)との出会いは、大学卒業まであと1年という時期に参加した学生起業家向けのイベントです。彼はその時「スマホ家庭教師mana.bo」の原型のようなものを作っており、やたらと熱く「これがやりたいんだ」と語っていました。当時、僕もいくつかのサービスを作ってはいたものの、彼のように人生を賭けるほどの情熱の矛先は見つかっていませんでした。三橋のパッションと人柄に惹かれて、出会った次の日から「スマホ家庭教師mana.bo」の開発に協力することになったのです。
 やがて三橋は当時内定先だった外資系コンサル会社の内定を辞退して事業にフルコミットすることを決意し、僕も本格的に取り組むことにしました。決め手になったのは、やはり三橋の存在です。それまでの仕事を通して彼の情熱と能力を目の当たりにし、心から尊敬するようになっていました。一緒にやって万が一失敗したとしても「こいつとやって負けたなら仕方ないな」と割り切れる気がしたのです。

Q:創業期のマナボで、廣田さんはどのような役割を果たしていたのでしょうか。

 エンジニアリング以外の部分全般ですね。僕以外の役員の方がエンジニアとして優秀だったので、エンジニアリングは彼らに任せて僕はチームに必要な仕事をすることにしました。まずは妻子あるCTOに給与を出して巻き込むために三橋と共に資金調達に奔走。システムができてきたがお客さまがいないので営業マンに。「使ってみよう」と言っていただけるお客さまは見つかったが契約書がないので法務担当に。デザインがイケてないので刷新するためUIデザインを。そういう感じで、広報、採用、ユーザーサポート、開発ディレクションなどを歴任してきました。始めるタイミングではどれも素人ですが、愛と気合いと工夫でキャッチアップして何とかするという流れです。

 その間に、自分よりもその分野で圧倒的に優秀な人材を連れて来ることも僕の仕事です。例えば1年ほど前には、大学時代の友人である角田(角田耕一/株式会社マナボ財務部長)にジョインしてもらいました。彼はもともと外資系投資銀行でM&A業務を担当していたのですが、現在はマナボの財務を中心に法務・労務などコーポレート部門全般を担ってくれています。財務の専門知識はもちろん、プロフェッショナルとして最前線で戦ってきた彼の経験がチームにもたらすものは非常に大きいです。
Q:では、廣田さんは人事にも深く関わっているのですね。

 そうですね。これが創業期からいる人間の役割だと思います。私達がめざしているのは、ITの力で教育に変革を起こすことです。そんな壮大な目標、いまの自分のような未熟な人間の力だけでは到底叶いません。経営者としてレベルアップするための努力は惜しみませんが、同時に自分よりも優秀なメンバーが集い活躍できるような組織を作るのが僕の仕事だと思っています。

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Q:教育事業にはもともと関心をお持ちだったのでしょうか。

 思い入れが深くなったのは、サービスをリリースしてからですね。僕は受験勉強を経験していないので、受験生にとっての「スマホ家庭教師mana.bo」の価値を経験ベースでは実感できず、最初は歯痒さを感じていました。そんな中、ユーザーさんに直接インタビューをする機会があったのです。ダッシュボード上の数字ではなく、目の前にいるユーザーさんから「mana.bo」がどれだけ役に立っているかを聞いたことで、事業に対する意識が一気に変わりました。それが僕の原体験ですね。
 ユーザー数が100人ほどしかいなかった頃に、提携会社の都合で1ヶ月ほどサービスの休止をアナウンスしたことがありました。すると、その瞬間に5~6人から一斉に「続けてください」とクレームが届き、慌ててサービスを継続したのです。私達は、近くの学習塾や予備校に良い先生がいない遠隔地に住む中高生を主なターゲットとして「いま聞ける、すぐわかる。スマホ家庭教師mana.bo」のサービスを提供しています。勉強していてわからない問題に遭遇した時、彼らには他の選択肢がなく、止められると非常に困るのです。
正直なところ、僕は「いい教育」がどういうものかは究極的にはわからないと考えています。サービスを受けたタイミングから、実際に効果が出るまでの間に時間がかかりすぎるからです。なので私達は教育の「コンテンツ」ではなく「インフラ」を変えようとしています。
 インターネットの普及により世の中は圧倒的に便利になりましたが、教育業界にその恩恵はありません。小売業界は楽天やAmazonが、広告業界はGoogleが変えましたが、教育業界は半世紀以上前からほぼ何も変わっていないのです。私達は「いま聞ける、すぐわかる。スマホ家庭教師mana.bo」から始まり、インターネットの力を使って様々なサービスで教育分野を変えていこうと思っています。

Q:最後に、廣田さんが考える創業メンバーの役割についてお聞かせください。

 繰り返しになりますが、自分たちよりも優秀なメンバーを集め、彼らが活躍できる組織を作ることですね。直近の1年間で素晴らしいメンバーが続々と入ってきてくれたのは本当に誇らしいことです。しかしメンバーが優秀すぎるあまり、自分自身が事業・組織の成長のキャップになってしまわないかという危機感を日々感じています。今後も試行錯誤を繰り返しながら、経営者としてもっともっとレベルアップし、本当に世の中を変えられる事業に育てて行きたいです。