軍隊や警察官など、必要性があるために制服を揃えている特定の職業が存在するのは世界共通だが、オフィスでも制服を支給している企業があり、また子供たちにも揃いの制服を着させて学習をさせようという習慣は、日本独特のものだ。
このような習慣は、同窓であること、同じ釜の飯を食った仲、などの言葉で感情的な繋がりも強化され、一つの共通意識を育てる上で大きな役割を果す。そしてこの制服への思い入れ。
ただ単に一つの集団であることを認識する以上に、日本人には特別な意味を持ち続けてきた。
戦国時代には、特に武勇に秀でた武将とその配下のみが着用を許された「赤備え」が有名だ。
昭和の時代には人気ロボットアニメで、主人公の敵役である少佐が専用機を赤色でペイントし人気を博したが、戦場において自ら目立とうとする行為は時に自殺行為となる。
それを敢えて行い、甲冑や旗指し物を朱色で染め抜き、決死の覚悟で戦いに臨んだ「真田の赤備え」「井伊の赤備え」は、400年以上が経った今も語り草である。
当時、その部隊に抜擢され、真っ赤な甲冑の着用を許された武士たちのモティベーションがどれほど上がったのか、想像に難くないだろう。時代は下り、日本とロシアが激しく戦った日露戦争。
この戦争の際、日本の勝利を決定づけたのは日本海海戦における日本海軍の勝利だったが、この時にも、「制服」を巡る一つのエピソードがあった。
もともと日本海海戦では、ロシアのバルティック艦隊が有利とされ、世界はロシアの勝利を全く疑っていなかった。
当然、その戦いに臨む日本海軍将士の決意は悲壮である。そして、対馬沖にロシアの大艦隊が現れ、日本の連合艦隊が迎撃コースを取り、間もなく戦闘が始まろうと言う日。
両国の指揮官は「制服」について対照的な命令を出した。
ロシアの指揮官は、食事や休憩などの取り決めはいつも通りとし、平常のまま過ごすこと。
そして、戦闘においては激戦が予想されるため、手持ちの制服の中でもっとも汚れても良い、汚いものを着用することを命じる。一方で、日本海軍の指揮官である東郷平八郎は違った。
東郷は全将士に対し、最初に風呂に入り身を清めることを命令。
そして、全員に対し真新しい制服を支給して、戦闘にはその「死に装束」で向かうこととした。
そして最後に、艦にある酒保(売店)を無料開放し、いわば最後の娯楽時間を過ごすことを推奨する。やや芝居じみてはいるが、もちろんこれには軍事的合理性があり、戦闘に際してケガを負った場合にも、さまざまな感染症に罹患しないことを一番の目的にする処置である。
しかし、間もなく始まるであろう世界最大の海戦に臨むに際し、身を清め、「真新しい制服」を支給された将士が新しい服特有の匂いがする制服に袖を通した時、どれほどモティベーションを高め、来るべき海戦での活躍を心に誓ったか。
こちらも想像に難くないところだ。
制服にはこのように、組織に一体感を生み出すという以上に、オンとオフを切り替えるとても大きな役割もある。
そんな、組織文化の醸成に一役買う制服の存在だが、言うまでもなく非常に有効なツールだ。
そして企業経営者に限らず、組織のリーダーは自らが率いる組織に、好ましい組織文化を確立し、維持し、さらに発展させるために苦悩し続け、このようなツールを使い続けてきた。
それは、今を生きる私たち現役の企業経営者も同じであるが、では自社は、組織文化、あるいは企業文化というものを確立する上で、どの程度の計画的な行動を繰り返し、そして「目的的に」ツールを使いこなしてきただろう。
おそらく、なんとなく制服を導入し、何となく企業理念を制定してみたものの、その定着と確立、さらにより以上の醸成には、率直に言って計画的に動けていないことも多いのではないだろうか。
好ましい組織文化の確立は本当に難しい。
手広く話しても話が拡散するので、そこで今回は、以下のような3つのポイントに絞り、好ましい組織文化の確立と維持発展を進めていく方法について考えてみたい。
経営者として長年悩んでいることばかりではあり、正直今も手探りで答えを求めている重いテーマばかりではないだろうか。
それを敢えて、自分の考える形というものを問題提起することは汗顔の至りだが、恥を忍んで筆を進めていきたい。
僅かでも、本稿をお読み頂いた経営者の方に、参考にして頂ければ幸いだ。
顧客第一主義の本質とはなにか
私は、顧客第一主義の本質とは極めて簡単なことだと思っている。
それは、徹底的に顧客の満足と幸せを願うことだ。
もちろん、顧客に尽くしすぎて、或いはモンスターカスタマーからのクレームにどこまで付き合い、どこまで尽くすのか、という課題はあるが、それは経営陣が考え、そのものさしを作れば良い。
というよりも、経営者にとってもっとも大事な仕事の一つは、自社はどこに顧客満足と自社の利益に折り合いをつけるのか、を考えることにある。
そして、顧客の満足と幸せに応じた対価をどのような形で頂こうとするのか。
それが経営そのものだ。
そのため、まずは徹底して顧客の満足と幸せを願う企業文化を醸成すること。
顧客第一主義の本質はこれ以外に無い。
その心得を端的にまとめた言葉がある。
目の前にいる人と過ごす時間は、これが一生で一度きりの、最後の時間かもしれない。
そう言う気持ちで客人をもてなす気持ち、「一期一会」だ。
茶の湯を大成した千利休の教えだが、その利休にはこんなエピソードがある
ある時利休は、茶室を訪れた一人の武士から、「茶道とはどういうものでしょう」と問われた。
これに対し、利休は
「茶は服のよきように」(お茶は客人が飲みやすいように淹れよ)
「炭は湯の沸くように」(炭はお湯がよく沸くように並べよ)
「夏は涼しく、冬は暖かに」(夏は涼しく、冬は暖かに客人を迎えよ)
「花は野にあるように」(花生けの花は、野にあるように自然にあしらうように)
「刻限は早めに」(約束の時間から遅れぬように)
「降らずとも雨の用意」(万が一の雨に備えて、雨具の用意をして客人を迎えよ)
「相客に心せよ」(客同士の取り合わせには注意せよ)
この七則がすべてです、と答える。
この7つは「利休七則」と呼ばれ、茶道をたしなむ人にとっては入門者であれば誰でも知っている基本原則。
このような「当たり前」の回答をされた質問者は、「そんな子供でも知っている事を聞いているのではない」と、怒り出した。
それに対し利休は、相手の目を見て静かにこう答えた。
「わかっていても出来ないのが人間です。もしあなたがこれらを全てできるなら、私を弟子にして下さい」と。
恐らく、顧客第一主義を会社の価値観として確立しようと考えている経営者であれば、言葉や表現方法は違えど、この利休七則の考えを全く導入していないということはないだろう。
しかし、わかっていることとできていることは全く違う話だ。
本当にあなたの会社では、お客さんが快適に過ごせる温度や湿度管理を、その日の気象状況に合わせて毎日徹底し調整しているだろうか。
お客さんの好みや体調を配慮した飲み物を提供しているだろうか。
恐らくほとんどの会社では、マニュアルや取り決めに従い室温を調節し、季節感に関係のない毎回決まった飲料を提供し、雨具の用意など思いつきもしないだろう。
もちろん、これらのマニュアルや慣習は一義的に否定するものではない。
しかし考えて欲しいのだが、取り決めに従って動くように奨励している会社で、果たして従業員が自発的に、顧客が室温をどう感じているかを気にして行動し、新茶の季節にはたとえ安価なものでも良い香りのする新茶を提供し、雨降りに備えてビニール傘でも良いので備えてはどうか、という発想になるだろうか。
そのような従業員が、商売に関する部分でだけ、「お客様のことを第一と考えて行動せよ」と言われて、その瞬間にだけ何かのスイッチが入ることなど決してあり得ない。
顧客からすれば、訪問するたびに季節感が感じる毎回違ったお茶が振る舞われ、突然の雨に際してはビニール傘を出されたら、きっと驚き、その心遣いに感謝して感動すらするだろう。
しかしこの事例でもっとも大事なことは、おかしな言い方だが顧客が喜ぶことではない。
利休七則の考え方のように、従業員が顧客を第一に考えて行動する習慣が身につく仕組みに、本当になっているのか、ということだ。
そしてもっとも大事なことは、顧客が驚き喜ぶ顔を見て、「お客さんに喜んでもらう喜び」を、従業員が肌で感じることだ。
従業員は顧客に喜んでもらう体験を通して、自分が付加価値を提供している本当の喜びを知ることができる。
最近少し勢いが落ちたとは言え、ディズニーランドの経営から学ぶことは多い。
そしてそのディズニーランドでは、従業員の間で徹底的に共有されている企業文化がある。
それは、「見えないところこそ手を抜かない」というものだ。
例えば数ヶ月に1回程度行われる、塗料の塗り直し。
顧客が立ち入ることができず、また目にすることが決して無い仕掛けや設備の裏側なども完璧に仕上げるが、例えば白雪姫と7人の小人のアトラクション。
白雪姫が差し出すりんごの裏側は絶対にアトラクションからは見えないのだが、その塗り直しこそ真剣に仕上げようという職人文化がある。
なぜなら、見えないところで手を抜く人間は、絶対に見えるところと見えないところで、サービスの質を変えようとするからだ。
そしてその浅はかな手抜きは大概の場合、思わぬ形で露呈して会社は窮地に陥るか、そもそも顧客を舐めた態度が随所に現れて、まとまる商談もまとまらなくなるだろう。
その意味では、故・スティーブ・ジョブスが、その製品の基盤デザインにまでこだわっていたのはあまりにも有名な話だ。
基盤デザインなど、一般のエンジニア以外はまず目にすることがない。
しかし、経営トップがそのようなところにまで手を抜こうとしない鬼の姿勢を見せれば、それは自ずから企業文化に成長する。
企業文化とは、経営トップが強い信念で実践し、その背中を見せることで初めて定着するものであるということだ。
なお余談だが、ディズニーではそのような企業文化があるので、実際に訪問しても、目につく範囲で汚れやホコリが溜まっている場所を見かけることはまず無い。
しかし、大阪の有名テーマパークでは、「手の届く範囲で拭いたな・・・」という拭き跡がわかりやすい形に残ったままの鏡や、額縁の上にずいぶんとホコリが溜まっている子供向けのアトラクション施設を、残念ながらいくつか知っている。
正直、ごく普通の対応であり、そのことに別段の不満もなければクレームをつける筋合いのものでもないのだが、「まあそうだろうな」と、興ざめする本音はやはり隠せない。
ただ、テーマパークであれば、他のところでもリカバリーできることはあるだろう。
しかし、これが一般企業であれば、一度顧客から、「まあこの程度だろうな」という思いを一度持たれてしまえば、その回復にはその倍では効かない努力が必要になるものだ。
マニュアル通りに動くのか、顧客目線で行動するのか、という組織文化は、こんなところでも効いてくる。
結局のところ、顧客第一主義の本質とは、どこまで顧客目線に立ち、その満足度を追求するのか、という真摯な思いを従業員の間で醸成する企業文化そのものであることは間違がない。
しかし、わかっていても実際にそれを自分自身が実践することはもちろん、組織としてより大きな組織文化に育て上げることは極めて困難だ。
まさに利休七則であり、わかっていることとできることは全くイコールではない。
では、顧客満足に優れている会社の経営者たちはそれを実際に、どのように実践したのだろうか。
その実例から、少し学んでみたい。
組織への浸透と取り組み
顧客第一主義を企業文化として定着させるためにはどうすればよいか。
一つの強い信念を持ち、また一風変わったやり方でそれを実践し成果を上げた経営者がいる。
東日本ハウスの創業者であり、創業から25年で実に1000億円企業まで育て上げた、中村功氏だ。
中村氏は、自分の肉親すら感動させることができない社員が、顧客を満足させることなどできるわけが
ないと考えて、新入社員に初任給を支給した時にある変わった義務を課していた。
1つは、両親に初任給でプレゼントを渡すこと。
そしてもう一つが、母親の足を自らの手で洗い、その感想を後日中村氏に報告に来ることである。
そんなある年の、初任給支給のシーズン。
こんな無意味とも思えるイベントに正直乗り気でなかったある一人の新入社員は、それでも決まりであるために母親を縁側に連れ出し、たらいに水を貯めると母親の足を取り、洗い始めたという。
そして母の足を手に取った時に気がついたのは、その荒れに荒れた踵や深く年齢が刻まれた甲の様子。
その時に彼は初めて、早くに父親を亡くした母が、今までどれだけ苦労して自分を育ててくれたのか、ということに思いが至り、胸が一杯になったそうだ。
そしてただひとこと、
「母さんありがとう、長生きして下さい。」
というのが精一杯だったそうだ。
そしてそれを言われた母親も感極まり、
「ありがとう・・・」
と応えるのが精一杯だったと、彼は中村氏に報告した。
中村氏がこのような体験を通して未来ある新入社員に伝えたかったことは、人に喜んで貰おうと心を尽くすことは、実は自分の方こそが幸せを貰うのだという事実だ。
そして、人に心を尽くし喜んでもらうことが、実は自分も嬉しいのだという単純な事実に気がつければ、後はその想いをどのように仕事に反映させていくのか、という方法論だけである。
顧客第一主義の本質とは、きっとこの程度のものだ。
従業員自身が人に心を尽くす喜びを知っており、そして従業員自身も、会社や経営陣から心を尽くされていると実感できる環境で働いていること。
そんな会社であれば、顧客第一主義の本質を追求することは決して難しいことではなく、組織文化として醸成する最初の一歩はきっと達成される。
では、具体的な方法論はどうするのか。
そのような想いを共有する従業員の教育が上手く言ったとしても、思いが直接利益に繋がるわけでもない。
もちろん、無制限な他人への奉仕は宗教の役割であり、商売として成立するようなものではない。
その一つの答えは、「けっしてNOと言わない百貨店」として知られる、アメリカの高級百貨店、ノードストロームの事例に見られるかもしれない。
ノードストロームでは、顧客満足のわかりやすい実践のために、顧客からの要望や依頼に対して
「絶対にNOと言わない」
という規則を定め、それを実践させることを徹底して評判を取り、売上を伸ばしてきた実績を持つ。
わかりやすく言えば、顧客から廃盤になった商品が欲しいと言われれば、それはもう販売されていないからありません、と言わず、代替品を探します、というような対応と言えばいいだろう。
しかし、ノードストロームではそんな当たり前の対応はしなかった。
ある時、ノードストロームの店舗に、タイヤを4本転がしながら入店してきた男性がいた。
そして、このタイヤは具合が悪いから返品したいので返金してくれと要求する。
ちなみにノードストロームでは、顧客第一主義を徹底するためにいつ購入したものでも、レシートがなくてもいつでも返品に応じ、返金するというルールがあり、それを顧客にも周知している。
一方で、ノードストロームではタイヤなど扱っていない。
この時に応対した接客係は、もちろん断る・・・はずもなく、快く返金に応じ、直ちにタイヤを引き取り申告のあった現金を「返金」したという。
なおこの一連の話。
ノードストロームのタイヤ伝説として有名であり、ネット上でもずいぶん尾ひれがついて独り歩きしているのだが、実は嘘だ。
嘘と言えば言い過ぎかも知れないが、少なくとも事実として確認されていないエピソードである。
そして、同社でアルバイトから副社長まで昇り詰めたベッツィ・サンダースは、ノードストロームに関する様々な伝説について、その著書の中で要旨、以下のように語っている。
「人はなにか特別な経験をしたら、それを人に話したがります。そして、その特別な思いを人に称賛してもらうことで、そのサービスの提供者と、サービスを提供された自分に誇りを感じるのです。」
早い話が、ノードストロームで本当にタイヤ伝説のような事例があったのかが大事なことではなく、ノードストロームでサービスを受けた顧客がそれを人に話し、同社を称える口コミが広がった結果、真実であるかのように皆が信じたことだ。
これこそまさに、企業文化の成熟がもたらした結果であり、「あの会社ならそれくらい、顧客満足に真摯に向き合うに違いない」というモノの味方を、人々の間に浸透させることに成功したということである。
その際にかかるコストは、確かに安くない。
決してNOと言わずに、顧客の理不尽とも思える返金要求にも応じるなど、恐らく良い話の倍くらい、酷い話があるだろう。
しかしそのリスクを背負うのか背負わないのか、あるいは定量的に観測をした上で即断できる決済権をどの階級に何ドルまで与えるのか。
それを詳細に取り決め、実際に機能する仕組みにするのは経営の役割だ。
まずは、顧客第一主義の思いを従業員に徹底し、具体的な仕組みとしてNOと言わない、返金には無期限無制限に応じるというルールを作ることで、具体的な実践方法を定める。
このようなしくみを作れば、想いは形になる。
少し話が大きくなり、それは高級百貨店の話でしょ?という、どこか自社とは違う事例として感じることもあるかもしれない。
そのためここで一つ、小さな個人経営のお店の話をしたい。
私は恐らく、この会社は10年後に、きっと大きな会社になっているのではないかと注目しているお店だ。
その店の名は、奈良市にある「まるかつ」というとんかつ屋さん。
ロードサイドに小洒落たお店を構えるが、1店舗しか無くいずれのFCにも属していない、完全な個人経営の店だ。
「とんかつ屋まるかつ」で検索すると、朝日新聞や福井新聞が報じたいくつかの記事と、ネット上で無数に拡散しているブログやツイッターを見つけることができるだろう。
このお店は一体何をしたのか。
それは、「常設の」子供向け無料食堂だ。
本当に困った人がいたら、コッソリと言って下さい、という趣旨の貼り紙は、以下の通りである。
とんかつ屋まるかつ (情報・画像参照元:奈良いこマップ)
なおかつ、この貼り紙は右の写真のように店舗外の目立たないところに貼り、その内容もとても気遣いにあふれるものになっている。
なお、このような試みをネット上で広げてもいいのか、ということについては問題がないので安心して欲しい。
店主自ら各種SNSで紹介し、マスコミでも手広く報じられており、筆者自身も、自分のブログやSNSで散々に拡散させた上で店主から連絡を貰ったこともあるので、そのあたりの心配は無用だ。
顧客第一主義とは少し違うように感じるかもしれないが、この店主は他にも、2018年の北陸豪雪被害に際しては、「北陸住民特別割引」というキャンペーンに取り組み、話題になった過去を持つ。
店主はこれらの活動を通して、飲食店が人を幸せにするために何ができるのか、という思いを考え抜き、それを追求し続けている。
そして行き着いた一つの答えが、飲食店が社会と、そして人々に貢献できる手段は、美味しいものをお腹いっぱいに食べてもらうことしかない、というシンプルな事実だ。
その想いを、一見ムチャとも思える取り組みを通して従業員にも徹底し、食事を頂く人に幸せになってもらうこと。
その想いを、組織文化として作り上げたいと願っている。
そして、その効果は絶大だ。
こんな取り組みをしようというとんかつ屋であれば、話題にならないわけがない。
SNSで爆発的に拡散し、文字通り「食べて応援」しようというお客さんが連日長蛇の列を為している。
訪れる客たちは、自分たちが美味しく食事をしながら、そこから上がる利益で食事にも困っている小さな子どもたちがお腹いっぱいにご飯が食べられる僅かな手伝いをできることに、幸せを感じる。
困っている人や、小さな子供にだけは、お腹いっぱいにご飯を食べさせてあげたい。
そんな店主を応援したいという思いが、この店の知名度を全国区に押し上げ、そしてそこで働く従業員にも、店主の思いと考え方が徹底的に浸透することになった。
なお、非常に言葉は悪いかもしれず恐縮だが、この取り組みを始めてから1ヶ月ほどで、実際の利用者は2組だそうだ。
つまり、結果として数千円にも満たないコストで、この店主は自分の経営理念の浸透に成功し、それを共有してくれる多くの顧客に恵まれたことになる。
しかしそれも、どれだけの「無料客」が訪れるか予測もできず、また常連客や一般客に不快な思いをさせ、顧客離れを招くかも知れないというリスクを考慮した上での、店主の英断である。
街の小さな飲食店でも、これほどまでに自身の信じる企業文化を確立し、浸透させ、さらに良き理解者を得ることにも成功している実際の例があるということだ。
ぜひ、参考にして欲しい。
三方良しのバランスを実現するために
先のとんかつ屋さんの事例は、「売り手よし、買い手よし、世間よし」の三方よしをキレイに実現した好例と言えるだろう。
しかしこれは、トップのリーダーシップで得た結果であり、従業員一人ひとりには意識として根付いても、それが血肉になるにはまだ弱いかもしれない。
従業員一人ひとりが、その考えを本当に理解し、自分の考えとして取り込んでくれるには、なお大きな壁がある。
では、このような考えを実際に自分のものにするためには、どのような取り組みが考えられるだろう。
その一つの参考になるのが、もう30年以上前の古い映画だが、近江商人の人材育成法を映画化した作品、「てんびんの詩」かもしれない。
この物語は、近江商人の大店に生まれた主人公の少年が、中学を卒業し当主の後を継ぐべく、修行を始めようとするところから始まる。
一人前になるべく、厳しい修行を決意した少年。
その少年に当主は物語の冒頭、数枚の鍋ぶたを手渡し、これを売ってくるように命じた。
そして、「鍋ぶたすら売ってくることができないものに、家業は継がせられない」と突き放し、少年を外に放り出す。
少年は父の冷たい態度に戸惑いながらも、「そんなこと簡単じゃないか」と考え、最初に向かったのはお店の大口の取引先だ。
そして、いつも世話をしているのだからと、鍋ぶたを買うように迫るという傲慢極まりない態度を取り、すぐに叩き出される。
やむなく一般家庭に飛び込みをするのだが、忙しい邪魔だと怒られ、別の家では道中で見かけた行商を真似て卑屈な手揉みをして媚びてみせるが、気持ち悪い出て行けと追い出される。
そんな少年が最後に思いついたのは、「泣き落とし」だ。
精一杯の身の上話を作り出し、自分が惨めな人生を送ってきたことや今日の食事にも困っているという話を老夫婦に聞かせ、同情をひいて買って貰おうとするのだが、これも成功直前に話しのつじつまが合わなくなり、善意の人を本気で怒らせるという最悪の愚行までやらかし、叩き出される。
そんな数ヶ月を過ごし、結局鍋ぶたは一枚も売れないまま。
その間少年は、そんなことを命じた両親が悪いと愚痴をこぼし、あるいはただの鍋ぶたなんか売れるわけがないと商品のせいにもする、全く進歩のない日々を過ごす。
そんなある日のことだ。
少年はいつも通り近くの村に足を運ぶと、農家の井戸端に鍋ぶたが並べられているのを見かける。
そして、一つのことを思いつく。
(そうだ・・・この鍋ぶたを全部壊してしまってから、売りに来ればいいんだ・・・。)
そう考えた少年は、さっそく鍋ぶたを手に取ると井戸に叩きつけ・・・ようとするもののできず、気がつけば井戸の水を組み上げ、一心に鍋ぶたを洗い始めていた。
そこに、物音を聞きつけ出てきた農家の女性は、「お前、そこで何をしてるんや!」と少年を一喝。
飛び上がらんばかりに驚いた少年は、「ごめんなさい、悪いことをする気はなかったんです!」と謝る。
そして、自分は商人の息子で店を継ぐための修行をしていること。
しかし、何ヶ月も鍋ぶたの一枚すら売る事ができず辛かったこと、悔しかったことを、涙ながらに話し出す。
そして今日ついに、ここで鍋ぶたを壊してしまってから売りに来ることまで思いついたが、いざとなると鍋ぶたを愛おしく思い、つい洗い始めてしまったことなどを正直に話した。
最初は怒っていた農家の女性は、やがて少年の前にしゃがみ込み、自分の息子と大きくは変わらないであろう少年の話をじっと聞き、そして最後には涙と泥で汚れきった少年の頬を手ぬぐいで拭いて一言、こういった。
「お前の鍋ぶた、おばちゃんが買うたる」
少年は、「ええのんか!?」と驚きの声を上げ、そして人生最初のお客様を得たわけだが、その時に父が言っていた言葉の本当の意味を理解することができた。
「売ればわかる」だ。
映画のことなので、その感想は見る人の解釈それぞれだろう。
私がこの作品を通して感じたことは、取引先を大事にし、商品を大事に思い、そして商売を通じて顧客の幸せと世の中が良くなることを心から願えば、鍋ぶたですら売ることができる、という教えだ。
まさに三方よしだが、その考え方は恐らく、実際にここまで肌感覚で体験しないと、身につかないものかもしれない。
なお、この映画がいつ作られたものかを確認したいと思いネット検索をしたのだが、そこでヒットした某大手通販サイト。
DVDが販売されておりコメントも付けられているのだが、要旨、
「鍋ぶたを洗ってあげたら売れるなんてバカバカしい。商品は欲しいと思っている人に適切な説明をすることで売れるもの。それ以上でもそれ以下でもない。」
という辛辣な感想が最初に目についた。
当然、評価は星1つだ。
どうも、ネット通販という対面販売ではなく、一見人の心が通い合っていないかのように錯覚する商取引が一般的な時代に育った世代には、媒体が何であれ売り手がどれほどに、顧客の事を考え抜いてECサイトを構築しているのか。
そして買い手の利便性と事後のアフターフォロー、どうすればもっと顧客に満足してもらい幸せになってもらえるかと言うことを真剣に悩み抜いて商売をしていることなどは、きっと理解の外になっているのだろう。
欲しいと思っている人に欲しいと思っているものを売ることしかできない人には、残念ながら高い付加価値のある仕事は用意されない。
三方良しの考え方は、ある意味で顧客すら、その価値を再発見してくれるような商売のあり方を指すものだ。
その身近な例を一つ紹介したいのだが、私が住んでいるところは県外就業率が非常に高くその率は実に50%を軽く超えており、究極のベッドタウンである。
またその県自体は、平成何年度のデータか失念してしまったのだが、外食産業への酒類卸売量が全国最下位になった事がある。
つまり、家飲みはともかく外食で酒を飲む量が極めて少ないと言うことだ。退勤後にそのまま近くで同僚と一杯飲んで帰るのだから、ベットタウンには居酒屋の需要がないということである。
住民はファミリー層も多いが、働くお父さん・お母さんを差し置いて、平日から夜の外食をしようという需要ももちろん多くない。
また人口においても、ロードサイド型の大手飲食店が進出を考える目安とされる20万人にも遠く及ばないことも要因の一つではあるだろう。
つまり、あらゆる意味で居酒屋が儲かる理由のない教科書のような場所なのだが、そのような状況では、僅かな居酒屋需要を中小零細の個人商店が埋めるものの、サービスも値段も品質もあらゆる面で相当悪い。
そしていつも閑散とし、気がつけばテナント募集中に変わっており、かくして僅かな需要すら満たされることもない状態が続く。
そんな悪条件の中で、平日ですらも予約を取ってからでないとなかなか入れない1件の居酒屋がある。
まだお店ができて2年ほどしか経っていないが、私もたまに訪れることがある、お気に入りの店だ。
何が気に入って足を運んでいるのか、また多くの人が足を運ぶのか。
それは、行くたびにメニューが大きく変わること、そして新地の居酒屋でもなかなか無いような季節の食材が、品数も豊富に用意されているからだ。
春には富山名物の白エビの刺し身や桜鯛が。
夏には天然の鮎や鰻、鱧などの各種料理が。
秋には関サバの刺し身や国産の松茸が。
冬にはふぐの白子も用意して、お客さんを待ち構える。
予約制でコース仕立ての店なら、そんな事も可能だろう。
しかし、このお店は居酒屋でアラカルトメニューしか無く、なおかつお店の規模は30人程度しか入れない広さである。
常識的に考えれば、客の回転が期待できない分、生鮮は仕入れを控え焼き物を厚くし日持ちを図り、仕入れのロスが少ないようにする経営者が多いはずだ。
実際に周辺の店舗はそのようなところが多く、美味しいお刺身などまず頂くことができない店ばかりであり、それがますます外食産業を衰退させる要因になっている。
しかしこちらの店は、少ないなら少ないなりの外食需要をとことんまで取り込み、かつこの地に居住する多くの富裕層の心を掴むことに完全にターゲットを絞った経営で、完全に常連を掴んだ。
最初から、ロス覚悟で新鮮な食材を幅広く仕入れ、足を運んでくれた顧客を完全に満足させる事にこだわった結果、その日の生鮮食材は夜10時過ぎには全て完売してしまうほどに、ロスの少ないお店になったということだ。
かくして、非常に数少ない、僅かでも確実に存在する居酒屋需要を満足させるお店としてのポジションを確立し、地域のインフラとも言える存在に成長している。
最初から常識に従い行動し、ロスを恐れオーソドックスなお店づくりにしていれば、顧客も満足せず、お店も長続きしなかったことだろう。
地域社会に存在しないもので、しかし実は住民が求めているサービスとはなにか。
それを読み切った店主の、見事な経営判断だ。
三方良しと言えば難しく考えるかもしれないが、おそらくこのようなものだ。
人が求め、地域(世間)が必要としているにも関わらず存在していないもの、あるいは今あるものでは不十分なものに対し、自社には何ができるのか。
それが実現できたら、自社も顧客も地域(世間)も必ず満たされる。
どれだけ便利な世の中で過ごし、育ってきた社員であっても、
「商品は欲しいと思っている人に適切な説明をすることで売れるもの。それ以上でもそれ以下でもない。」
などと言わせるような教育をしてはならず、またそんな状態を放置してはならない。
三方良しの理念から学べることは、平成の時代が終わろうという時になっても、まだまだ非常に多くありそうだ。