【連続起業家対談 #4】“音の連鎖を通して、誰かの挑戦を応援する世界を創る” ビジョンに目線を合わせると、辿り着いたのはM&Aだった。TIGALA 正田 圭 × nana music 文原 明臣

― エグゼクティブキャリア総研より書籍化する連続起業家シリーズ
その書籍出版を記念し、著者のTIGALA正田圭氏と売却経験のある起業家を招き、シリアルアントレプレナーに関する対談を複数回にわたりお送りします。 第4回にお招きしたのは、世界累計500万ダウンロードの音楽投稿プラットフォームを率いるnana music文原氏です。特殊性の高い文原氏の生い立ちとDMMグループ入りを決断するまでの葛藤、そして今後の展望についてうかがいます。

■PROFILE
TIGALA株式会社 代表取締役社長
正田 圭
15歳で起業。インターネット事業を売却後、M&Aサービスを展開。事業再生の計画策定や企業価値評価業務に従事。2011年にTIGALA株式会社を設立し代表取締役に就任。テクノロジーを用いてストラクチャードファイナンスや企業グループ内再編等の投資銀行サービスを提供することを目的とする。2017年12月より、スタートアップメディア「pedia」を運営。
著書に『サクッと起業してサクッと売却する』『ファイナンスこそが最強の意思決定術である。』『ビジネスの世界で戦うのならファイナンスから始めなさい。』『15歳で起業したぼくが社長になって学んだこと』(いずれもCCCメディアハウス刊)がある。
▷note:https://note.mu/keimasada
株式会社nana music 代表取締役社長
文原 明臣
1985年10月生まれ。神戸高専機械工学科卒業。
19歳の時にF1の世界に惹かれ、そのままモータースポーツの世界へ。プロドライバーを目指し、スーパーカート、フォーミュラへとステップアップするが、目標に届かず夢を断念。その後、2011年に音楽×ITを用いたよりよい音楽の在り方を構想し、nana music Inc.を創業。2013年4月にはnana musicの日本法人である株式会社nana musicを設立し、米国法人から日本法人へ本社移管。現在、株式会社nana music代表取締役社長。

キャリアのスタートは「レーサー」

正田:本日はよろしくお願いします。
文原さんはもともとF1ドライバーを目指されていたのですよね。

文原:はい、僕は神戸出身で、神戸高専の機械工学を卒業しているのですが、基本的にはずっと勉強が嫌いだったんです。
高専に行ったのも大学に行きたかったからで、工業系に行って手に職をつけ就職しようと思った、というとても安易なきっかけです(笑)。

でも、高専に入ったはいいものの、勉強についていけず、辞めようかなと思っていたんですが、19歳で免許をとり、そこから車に乗り始めたのが転機でした。

うちはもともと車一家で、父親も兄も車好きだったんです。
特に兄がHONDAのインテグラという車のワンメークレース(※1)などを趣味でやっていて。

当時はF1の佐藤琢磨選手が初めて優勝していた頃なんですけど、調べると彼は19歳でモータースポーツを始め、24歳でF1に行ったと。
ちょうど僕もその時同じ19歳で、画面に映る彼に自分を重ね合わせていたんです。
気づくと、「F1ドライバーになりたい」、そう思っている自分がいました。

正田:僕も知り合いにレースを趣味にしている人がいるのですが、とてもお金がかる印象で、一般家庭の方が始めるにはハードルは高いですよね。

文原:はい。僕の実家は喫茶店をやっているのですが、決して裕福というわけではなかったので、バイトを頑張ってお金を貯めたのと、
それまでのなけなしの貯金を出して、レーシングカートを買って始めました。
そこからレーシングカートで3年ほどキャリアを積んで、2008年に「鈴鹿サーキットレーシングスクール」に入学しました。
ここは佐藤琢磨選手の出身スクールでもあります。

正田さんの仰る通り、モータースポーツには、最低でも年間数百万円以上の資金が必要になります。
更にトッププレイヤーに近づくほど、数千万円や億というお金が必要になってきます。

当時僕は周りの人や親にも借金をしながらレーサーとしての活動を続けていたんですが、それももう限界に差し掛かっていました。

ただ、僕の入学したレーシングスクールでは、首席でスクールを卒業した人間にはホンダがスポンサーとして援助してくれることもあり、
最後の光明をそこに見出していたんです。

そんなこともあり、人一倍真剣に練習に励んだ結果、入学時はトップの成績でスクールに合格することができたんです。
ただ、その後、入れ込みすぎてメンタルコントロールがうまくいかなかった。

そうこうしているうちに16歳くらいのライバルに抜かれてしまったんです。
当時僕が22歳だっんですけど、それには言い知れぬ焦りと悔しさがありました。

それでも集めたお金で2009年になんとかレースに出たんですけども、全5戦のレース中3戦を終えた時点ででお金が尽きてしまい、ドライバーの夢は諦めたんです。

※1モータースポーツのひとつの様式。全参加者が同一仕様のエンジンを使用したり、同一仕様のレーシングマシンに搭乗したりして行われるレース。

人生を変えた「Twitter」との出会い

正田:お金に興味を持ち始めたのはやはりレーサーを目指したことに起因するのですか?

文原:はい。先ほども申し上げた通り、レースをやっていると、単純にとてもお金がかかるので
「なんとかお金を貯めないとスタートラインにすら立てない」というのを常に考えていました。

なので、「どうしたら効率的に資金を貯めることができるのだろう?」と常に頭を働かせていて、
ヤフオクでマシンパーツの販売代行のようなものを行って、手数料を頂いたり、カートレースを娯楽としてパッケージ化して、
忘年会などのイベントに合わせ人を集めてカートレースをやる、というイベンターのようなことをしていました。

そうやって色々なことに手を出していると、常に新しい情報に目が向くようになります。
すると、SNSがとても近い存在になり、当時日本に上陸したばかりの「Twitter」をはじめると様々な人と繋がるようになりました。
当日のTwitterはいま以上にIT系やゲーム、アニメ好きな「オタク気質」の人たちが多かったんです。

彼らは常に自分のアイデアや考え方を発信していて。すると他の誰かがそれにインスピレーションを受け、また新しいアイデアが生まれていく。
玉石混合の中でアイデアが連鎖していくあの感じがとても楽しくて、どんどんと惹き込まれていきました。

僕が繋がった人たちの中には自分でサービスをやっている人たちも多く、彼らに触発され、「自分も何かを作ってみたい」そう思うようになりました。

するとある日、Twitterのツイートに2010年1月に発生したハイチ沖地震のためにチャリティーで歌われた「We Are The World 25 For Haiti」の動画が流れてきたんです。

僕、レースをやる前は音楽も大好きで、ジャズシンガーを夢見ていたこともあったんです。
世界の有名なシンガーがコラボし、声を重ねてひとつの作品を作っていく、そんな彼らの力強く美しい歌声にとても心が震えました。

自分もこれがしてみたい、と強く思いました。

ただ、一方で『We Are The World』には「音楽で世界を繋げる、ひとつにする」というコンセプトがあるけれど、57名がコラボしているその歌の中に日本人はただの一人もいなかったんです。

この歌に限らず、「世界を繋げる」という言葉は昔から使い古されてきましたが、全然実現できている感覚がなかった。
これだけインターネットが発展している世界なのに、誰もやれていなかったんです。

その頃ちょうどiPhone3GSを買ったこともあり、1人でコブクロを歌って、それをiPhoneのボイスメモで録音して、
録音した自分の音声をメインメロディーとして流し、それに更に自分の声をのせてハモってみる、みたいな寂しい遊びをしていたんです(笑)。

これをクラウドに上げることができて、その僕の声にどこかの誰かが声を乗せてくれて、一緒に歌うことができたら楽しくないかなと。
ポケットの中に入っていて、いつでも誰でもがアクセスできるスマートフォンで世界中の色んな人と一緒に歌うことができたなら、
『We Are The World』の描いた世界のように、本当に世界が繋がるのではないか、と思ったんです。

そんなことを考えると、F1レーサーを目指していたときのワクワク感が戻ってきたんです。

そして実際に動き始めたのは2011年のゴールデンウィークでした。
とある投資家がモバイルサービスを探しに大阪に来られていて、僕のサービスをプレゼンさせていただいたんです。
すると、大変興味を持っていただいて、後日詳細を聞きたいということだったので、改めて東京まで説明しに行きました。

結果として、その時はすぐの出資にはならず、話は繋がらなかったのですが、投資家へのプレゼンのために東京に出向いたタイミングで、
それまでTwitterで繋がっている友人たちにも会いに行ったんです。

会いに行った友人の一人は池袋に住んでいて彼の家に泊めてもらったのですが、風呂が壊れていたので、銭湯に行こうという話になって。
それで僕がTwitterで、「この辺に銭湯ないかな」とつぶやいたら知らない人から「ググれよ」ってリプがきていて。
よく見たらその人エンジニアだったんです。

それで、「こんなことやりたくていま東京に来ているんですよ、話聞いてもらえませんか?」って言ったら「いいですよ」と二つ返事で返してくれて。
そして僕が事業の構想を話すと、「よくわからないけど、面白そうだから手伝うよ」と言ってくださって。
その彼が最初のCTOでした(笑)。

正田:それはまた運命的な(笑)。
文原さんはTwitterこそが自分の人生を変えたと言ってましたが、TwitteでITの世界と出会い、事業のシーズを見つけ、最初のパートナーも見つけ出したのですね。

文原:はい、Twitterは僕のようなネット民にとっては最高のツールだと思っています。
2011年からの3年間はアベレージで毎日200〜300ツイートくらいしてました(笑)。

正田:それは相当な量ですね。そんな量のツイートを1日にするのって、かなり労力がいりませんか。

文原:僕、実は外で発言するのはそんなに得意ではないんです。
人とのコミュニケーションってすごく精神が削られて、気を遣ったり言ったことに反応したりしないといけないけれど、Twitterは一方向なので、
自分の言いたいことを言うだけでいい。それがとても楽で気に入っていますね。
そのツイートもなにか考えてつぶやいているわけではなくて、とにかく思いつくものを流していたんです。
けれど結果としてそれが様々な出会いに繋がっていることはとても有難く思っています。

サービスリリースの遅延、迫り来るキャッシュアウト・・・ M&Aを決断した理由

正田:サービスロンチからはどのように成長されていったのですか。

文原:サービス開発も波乱続きでした。
はじめ、2012年3月にサービスを出そうとしたけれども全然間に合わず・・・。
というのも、当時フリーランスエンジニアの方に開発を手伝っていただいていたんです。
彼とは週次ミーティングなどで進捗を確認していたんですが、自分はコードレビューできるわけではなく、
ある程度信頼して任せているところも大きかったんです。
それが、いざふたを開けてみたら、コードが一行も書かれていなかったという状態でした。

ただ、そこから新しい人を探してなんとか同年8月にサービスインしたんです。
初日こそ1日に4000ダウンロードされ『Tech Crunch』などの大手テック系メディアに取り上げられたものの、
翌日から2700、1500、100、50・・・という具合にダウンロード数は大きく減っていき、サービスが停滞してしまったんです。

当然、指を加えてそんな状況を見ていたわけではなく、サービスを継続させるために資料を作成し、VCを巡り、交渉を行っていたのですが
ダウンロードの数字を開示すると「もう少し様子をみさせて欲しい」と担当の方に軒並み言われている状況でした。

そして結局そのまま資金を集めることができず、2013年2月にキャッシュアウトしてしまいました。

様々な感情が自分の中でぐるぐるとしていました。その感情を一旦飲み込み、
当時の従業員や取引先全員に「ごめんなさい。お金を払うことができないです」と謝罪し、当分の間支払いを待っていただくお願いをしました。

かといってサービスを止めるわけにもいかず、個人的に投資家の方にお金をお借りしながらサービスを続け、投資家へプレゼンに回る日々を過ごしました。
今振り返っても何人と話したか、覚えてないほどです。
結果、2013年11月に5000万円の調達が決まり、サービス改善を行い事業も成長させることができました。

― 2012年8月にβ版リリース、11月に正式スタートした『nana』。 2017年10月には世界累計500万ダウンロードを達成。

正田:それは、壮絶な時期を過ごされていたのですね。
もともとDMMさんとの出会いはなんだったのですか。

文原:現社長の片桐さんと『awabar』というスタートアップ界隈の人々が集まるスタンディングバーで会ったのがきっかけです。
そのときに、片桐さんから「これ儲からないでしょ」みたいにメンタリングしていただいたのが最初でした(笑)。

それから定期的に会って一緒にご飯を食べていたのですが、2016年11月にいつものようにバーに呼ばれて、片桐さんがDMMの代表になるという話を聞かされました。
そしてそのとき初めてしっかりと「DMMで一緒に事業をやっていかないか」というお誘いをいただいたんです。

大変有難いお話でした。
けれど正直なところ本当に悩みました。
もともと自分で資金調達をしてやっていく気でしたし、ぶっちゃけて言うとどこかの傘下になるのに抵抗がなかったというと嘘になる。

一方で当時の状況に閉塞感を感じていたのも事実だったんです。
僕はサービスを始めた当初から一貫して変わらず、『nana』というサービスのスケールをとにかく優先させたかったんです。
けれど、いかんせんこのモデルはわかりづらく、投資家受けするロジックに落とし込むことが困難でした。

そして資金繰りの度に各所へ奔走し、常にお金のことばかりに頭を使いサービスに集中できなかった。
「自分は理想のサービスが作りたくて始めたのに、何をしているんだろう」という葛藤が常にあったんです。

改めて、片桐さんからお話をいただいたとき
「nanaというサービスを最速で世界中のユーザーに使ってもらうのには、何を最も優先させるべきか」もう一度しっかりと考えたんです。

正田:恐らくまたあと3ヶ月後に難易度の高い調達を控えている、という背景もあったのでしょうね。既存株主や反対意見はなかったのですか。

文原:ある一人の株主からは、「自分も事業をしているときにそういった話があった。けれど俺は断った。
その誘いを断ったからこそ、企業を大きく成長させることができたんだ。独立した状態だからこそ見える山の頂もあるんだ」

そういったアドバイスをいただいたりしましたね。
これは本当に有難いアドバイスでした。

正田:他の売却先の検討はしましたか。

文原:他の売却先はまったく検討しなかったです。
こちらの条件をほとんど飲んでくれたというのもありますし、片桐さんや亀山さんの人柄もわかっていたので、他を考える必要がなくて。

正田:これは、意外と思われるかもしれないのですが、うちもM&Aのディールをお手伝いするときは、1社のみとの交渉で決まることが多いです。

自分の結婚相手を探すように、「これ以上いい条件があるのではないか」他をみたらキリがなくなってしまう。
それよりも、まずは両者が自分の希望条件を持ち相手に誠意を持って「この人だ」と決める覚悟がないと、良いディールにはなりづらいと感じますね。

文原:その辺りの相性で、いつも正田さんが意識されることはありますか。

正田:「親会社になる方がビジネスの習熟度が高いこと」ですね。
ファイナンスの世界の定説として、上場企業などの大きな会社が小さな会社を買収すると、買われた方の株価が上がるんです。
これはPER(※2)で判断できるのですが、M&Aのロジックもまさに同様で、買い手側に余裕があり、売り手側の事業理解がないと成り立たない。

買い手側の方がビジネスの習熟度が側のが高くなければ衝突してしまうケースが多いです。
これは会社の規模ではなく、「ビジネスの習熟度」というところがポイントです。

文原:なるほど、勉強になります。

※2:1株当たり利益に対し、株価が何倍まで買われているかを表したのが株価収益率(Price Earnings Ratio)

「音楽で世界は変わらない」けれど、「音楽で個人をエンパワーメントできる」

正田:文原さんはDMMグループに入られて今後どのような事業を展開していきたいと考えていますか。

文原:最近は『nana』というサービスの先に何があるのだろうか、ということを考えています。

nanaを通じて自分が歌ったり、演奏を吹き込み、知らない人と音を重ねることで新たなインスピレーションを得ることができる。
創造性の連鎖を起こし、音楽で世界を繋げることができる。
それ自体とても素敵で楽しいことだと思うんです。

けれど、改めて、その先になにがあるんだっけと。

そこで僕が『We Are The World』でワクワクした感情、これってどういうメカニズムなんだろう、と考えてみたんです。

するとそれは「音楽が社会問題を解決する手段になると証明してくれたこと」なのではないかと。

あの歌によって当時のレートで100億以上の大きな金額が寄付され、実際に苦しんでいる人々の役にたったという事実なんですね。

けれど、僕は実は「寄付」というモデルがあまり好きではないんです。
なぜかというと、そういったプロジェクトは災害や支援活動があるたびに立ち上がっては消えていく。
逆に言うと、何かが起きないとそのムーブメントは起きないんです。

せっかく音楽のパワーの大きさがわかったのに、これはもったいないなと。

「音楽は共感を生み出し、共感から資本を創造できる」ここまでが『We Are The World』のプロジェクトでわかったことです。

僕らのやりたいこと、それは音楽によって「共感から生み出した資本」を、「世界をよりよくしたいと思っている人たち」に渡したいと、そう思っています。

災害が起きなくても、世界をより良くしようと戦っている人がいまこの瞬間にはいます。
その人たちに音楽と共感から生まれた資本を渡して世界をよりよくしていくための力にして欲しい。
それができれば、『nana music』というチームのひとつのゴールといえるのではないかと。

それがいま僕らが目指している世界観です。

正田:音楽から生まれた資本を挑戦する人間に渡す。それはまるで過去の文原さん自身の経験から生まれたサービスともいえますね。

文原:人は「音楽で世界を変えたい」というけれど、僕は音楽だけでは、世界は変わらないと思っています。
音楽で人に共感を与え、行動を変えていく。
その流れを丁寧に設計し、実際に作り上げ、体験を積み重ねていくことが必要だと思っているんです。

正田:今回の書籍出版と同時にCAMPFIREにてクラウドファンディングにも挑戦しています。これは「15歳起業家育成プロジェクト」と題して、学生起業家を支援するプログラムなのですが、これから起業される方に文原さんからメッセージがあれば最後にお願いします。

文原:自分が15歳だった頃、大人がいうことを聞いたかというと、聞きませんでした(笑)。

いいことも、そうでないことも、自分で走って転んでみて、初めてわかりました。

その中で、これはやってみてよかったなと思うのが、やってみたいと思うことに出会ったら、まずそこに自分を放り込んでみるということです。

この「放り込んでみる」という感覚が重要です。

ほぼ全ての物事はやる前にわかることなどまずないので、とりあえず何かを考えることを辞めて自分をそこに放り込んでみるんです。

正田:「放り込む」ていうバランス感が絶妙ですよね。

好きという感情ってポジティブなんですけど、それゆえに弱い。

「格闘技好きです」と言っても、それでプロになりたい、飯を食いたい、となると辛い練習が待っているかもしれない。結果、格闘技を嫌いになってしまうかもしれない。

だからこそ放り込む。
とりあえず放り込んで、やってみて、それでうまくいくから好きになる、という。そのバランスがとれたものでもので勝負できたらいですよね。

文原:仰る通り、好きという感情は弱いんだと思います。

僕は実家が喫茶店で接客業なのですが、いつもニコニコしてる両親たちを見て育ったせいか、たとえば周りの人間から嫌なことを言われたりしても何も言い返さずにいつもニコニコ笑ってる。

嫌なことあってもってその場で笑っていたら収まるじゃないですか。
それで、その場では笑っているんです。
けど、家に帰ると感情が抑えきれなくなり、「なんで俺ばっかり」と一人で泣くという、そんな時代を過ごしていたこともありました。

うまく自分の意見を人に伝えられない、そのときはとても複雑な感情で、コンプレックスばかりだったんですけど、いまになるとそれがとてもよかったなと思っています。

なにを言いたいかというと、「好きよりも強い感情がコンプレックス」なんだと思います。

そういう塞ぎこんだ経験がいまの自分の糧になっていて、その経験は「この場所では絶対に負けない」という気持ちにつながる。大人になって初めて役に立つ。

本当に辛いときは逃げてもいいんです。
ただ、その経験は絶対に将来生きる。
そう思っています。

正田・文原:本日は有難うございました。

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