■略歴
九州大学経済学部卒業後、三菱電機株式会社に入社。その後、HOYA株式会社からベンチャー企業、株式会社アプレシオ取締役を経て株式会社JIMOSへ。2010年10月から経営管理部長。株式会社コマースニジュウイチ及び株式会社アウトレットプラザの社外取締役も務めた後、2013年8月、株式会社農業総合研究所に入社。取締役CFOに就任。2016年6月マザーズ上場。現在に至る。
大企業で学んだ経理実務
■子どものころはどのような環境で育ったのですか?
出身は福岡県の大牟田市です。3人兄妹の長男として生まれました。弟や妹とはケンカもよくしましたが、仲良くいつも一緒に遊んでいました。実家は農家だったのですが、継がなくていいという方針でしたので、小学5年生のころから週に5日で塾に通うなど、勤勉な小学・中学時代だったと思います。
■大学時代についてはいかがですか?
高校卒業後は九州大学に入学しました。勉強漬けの日々から開放されたこともあり、大学ではアルバイトばかりしていましたね。メインは塾の講師です。時給が比較的よかったので(笑)。バイトで稼いだお金は友人と遊んだり、飲みに行ったりなど、大学生活を満喫していました。
■次に、社会人になられてからについて教えてください。
就職活動ではいくつかの会社から内定をいただきました。そのなかから、親とも相談して三菱電機に決めました。ただ、兵庫県伊丹市に配属が決まってしまい……。福岡を離れるのは嫌でしたね。22年間すごした街ですし、付き合っていた彼女もいましたし。
■それは辛いですね。三菱電機に入社されてからは、どのようなキャリアを積まれたのですか?
三菱電機に在籍した5年間は半導体事業部で経理をしていました。もともと数学が得意だったので、それを活かした仕事がしたいと思っていました。当時の三菱電機は、職種と事業所を組み合わせたマトリックスの組織体制でした。ですので、半導体事業部に所属していながら、経理業務に従事していたのです。
■伊丹工場への配属ですね。
そうです。工場だったので、主に原価計算や管理会計を担当していましたね。かなりのハードワークでした。でも、当時のハードワークがあったからこそ、今があると思っています。先輩からもたくさんのことを学びましたし、僕の基礎になっていることは間違いありません。4年目からは同じ半導体事業部の相模原事業所に転勤となりました。
■その後についてはいかがですか?
入社して5年目のときに三菱電機と日立製作所による新会社ルネサステクノロジ(現ルネサスエレクトロニクス)への転籍が決まりました。僕は三菱電機に入社したわけで、会社の都合で違う会社になるのであれば、と転職を決意しました。特に相模原事業所では上司と2人で経理を担当していたので、自信もついていたと思います。それで入社した会社がHOYA株式会社です。
■HOYAではどのような職種に就かれていたのですか?
所属は管理部でしたが、仕事内容としては経営企画を担当していました。HOYAはカンパニー制を導入していたので、所属カンパニーの予算を作成したり、予実分析などをしたりしていました。27~28歳のときだったので、経理よりも経営企画のほうがカッコイイと思っていましたし、合コン受けも良かったと記憶しています(笑)。
■HOYAにはどのくらい勤務されていたのですか?
1年半です。当時、サイバーエージェントの藤田社長やライブドアの堀江社長が活躍されていて、メディアでも取り上げられていました。彼らとは同世代です。ですので、自分もベンチャーで頑張りたいという気持ちが芽生え、紹介されたセルシグナルズというバイオベンチャーに転職しました。
■環境が大きく変わるわけですね。
そうです。当時、「ITの次はバイオ」と言われていましたし、資金調達もしやすい環境だったので選びました。もし会社がダメになっても食べていけるように、入社前にはかなり勉強しましたね。専門学校にも通っていました。
バイアウト、民事再生、IPOを経験
■大企業からベンチャーへの転職で戸惑いなどありませんでしたか?
相当ビビりました。社員数万人の組織から、わずか8名の組織に移っていますので。当時はオフィスも小部屋みたいなところでしたね。そこで経営企画室長として、上場の準備を含めた管理部の立ち上げに従事しました。証券会社、監査法人、その他コンサル会社など、さまざまな相手と打ち合わせの日々です。たくさんの優秀な方々と接し、大きな刺激になりました。最終的には、資金調達の環境が厳しくなり、自社だけで存続するのが難しく、オーストラリアの上場企業に事業譲渡しました。今でもその会社で研究開発は続けられています。
■イグジットしたタイミングで次の会社に移られたのですか?
はい。名証セントレックスに上場していたアプレシオという会社に入社しました。複合カフェの会社ですね。他の会社からも内定をいただいていましたが、アプレシオが倒産の危機にあったので、なんとか助けたいという一心で。「自分が入社すればなんとかなる」という、根拠のない自信もありました(笑)。
■再び挑戦というわけですね。
そうです。財務状況を確認し、債務超過であることを把握したうえで入社しました。入社後は、3億3,000万円ほど調達し、取締役にもなりました。しかし、思った以上に傷が深く、結局は民事再生することに。株主からかなりキツい言葉をいただきましたね。それこそ怒号のような。。
■なにが原因だったのでしょうか?
既存事業の赤字があまりにも大きく、減損会計も適用しないといけない。資金調達しても、またすぐ資金が必要になる。今思えば、数年先のPL/BSを予測せずに目先の資金調達をしてしまったのが、良くなかったですね。
■民事再生ということは、取締役も去ることになりますか?
取締役は残れます。民事再生って、会社にとって不利な契約は切ることができるんです。とんでもないですよね(笑)。社員の雇用も契約の一種なので、その契約も切ることができる。つまり、社員の解雇ですね。誰を残して誰をクビにする、そんな会議もしました。自分は残って、部下をクビにする。そんなことはとてもできないと思い、部下と一緒に退職することにしました。当時32~33歳、もう二度としたくない経験でした。
■当時はリーマン・ショックの前後ですよね。
そうです。自分たちはもちろん、周囲も大変な時期でした。ただ、僕には責任がありましたので、部下の就職をあっせんしつつ、ある程度めどが立ってから自分の就職活動をしました。一方で会社も存続させなければならず、つなぎ資金の調達や債権者集会に参加するなど、対応に追われていましたね。
■次はどのような会社に入社されたのですか?
事業譲渡と民事再生を経験し、自分自身、「負け続けた」と感じていました。勝ち方を知らないから負けるんだ、と。そこで、儲かっている会社に行って、儲かっている会社はどういうことをやっているのか、経営の勉強をしようと思ったんです。それでJIMOSという化粧品通販の会社を選びました。
■JIMOSでの経験はいかがでしたか?
JIMOSは、経営計画から各部門のKPIに落とし込み、そのKPIを達成するための活動計画を立てる。活動計画は仮説ですから、PDCAを回し、うまく行っていなければ活動計画を見直す。これがトップから新入社員まで徹底されていました。だからこそ、毎年売上も利益も上げることができるんですよね。とても勉強になりました。今の会社でIPOできたのも、JIMOSでの経験が大きかったと思います。
■JIMOSも最終的にはバイアウトしたんですよね?
そうです。もともとファンドが株主の会社だったので、いずれどこかに売らなければなりません。ファンドが見つけてきた会社がJIMOSをデューデリジェンスして決めるかたちです。紆余曲折ありましたが、最終的には株式会社ナック(東証一部)への売却が決まりました。
■バイアウト、民事再生、そしてまたバイアウト。さらに、現在の会社である農業総合研究所でIPOを経験されているのですね?
そうです。よく考えたら、手段は違いますが、すべてイグジットしてますね(笑)。負けも勝ちも経験し、どちらの方法論も知ることができた。これは大きな学びだと思います。もちろん、メンタルの強さも身につけられましたし。
■農業総合研究所へ入社を決めた理由は何だったんですか?
父の方針で農家は継がなくていい、ということだったので、社会人になってからも全く農業とは関係のない仕事をしていました。入社前になりますが、農業総合研究所の集荷場(農産物を集荷する拠点)を見学に行ったんですね。生産者が袋詰めした農産物をコンテナに入れて出荷している。その姿を見て、子供のころ見た祖父母や父と母の姿と重なりました。勝ちも負けも経験した、このタイミングでの農業総合研究所との出会いは、必然であり運命なのかな、と思い決めました。
■農業総合研究所への入社は2013年8月とのことですが、当時からIPOの準備をされていたのでしょうか?
すでにショートレビュー(短期調査)が終了していたので、ショートレビューの改善項目をひたすら行いました。あとは管理部の立ち上げです。具体的には、これまで親会社が行っていた経理の内製化ですね。経理担当者、総務担当者と僕の、3人のチームでスタートしました。
■松尾さんが入られたときには、主幹事証券や監査法人は決まっていたのですか?
決まっていました。ただ最初は「本当にIPOできるのかな」と、半信半疑でした。まだ赤字でしたし、資金繰りも厳しい状態でしたので。ですので、まずは会社を倒産させないこと、つまり継続させることを優先して取り組んでいましたね。過去の「負けた」経験が活かされたと思います。
■上場にあたり、御社ならではの苦労はありましたか?
上場の管理体制については、実務を経験していた僕と公認会計士の役員の2人で構築しました。特に苦労したのは、予算の精度を上げることと立てた予算どおりに実績を出すことです。予算の精度を上げるためには、売上をブレークダウンし、積み上げていくしかありません。うちの場合で言えば、各スーパーの店舗ごとに売上を積み上げて予算を立てました。予算を立てたら、それに向かって役職員一丸となって達成するのみです。ここで踏ん張れるかどうかが上場できるかどうか、だと今になっては思います。
あとは、2人で証券会社や監査法人、東京証券取引所などの審査対応や申請書類の作成を行っていましたので、かなりのハードワークでした。
農産物の流通を変えていく
■たくさんあるとは思いますが、IPOの秘訣とはなんでしょうか?
まずは、ビジネスモデルが確立されていて、わかりやすい事業であること。そして、社会的意義のある事業であることだと思います。簡単に言えば、売上が毎年伸びているかどうかです。売上が毎年伸びるということは、お客様からの支持を得て必要とされているわけで、社会的意義があるということです。逆に、売上がジェットコースターのようでは、社会的意義があるとは言えません。そのうえで、会社の守りである管理部の体制もきちんとしていなければなりません。ここがまさに、CFOの役割になります。
あとは、今になってわかるのですが、IPOできるかどうかは、会社の判断ではなく、主幹事である証券会社や監査法人の判断になります。なので、証券会社や監査法人の言うことをちゃんと聞いて、それを素直に期限通りに実施することだと思います。
■CFOとして松尾さんが実行されたことですね。
僕は最初のルールや基盤を作っただけで、社員のみんなが実行してくれたおかげです。今では社員自ら、より良いルールに改善してくれています。なので、僕というよりも、会社が一致団結してIPOに向かっていけたことが、大きな要因だと思います。
■上場によって得られた資金は、どのような部門に投資するご予定ですか?
やはりシステム投資ですね。生産者とスーパーにとってより使いやすく、より利益が上がるような仕組みを構築したいと考えています。具体的には、集荷場に行かないと出荷ができないという課題に対し、タブレットを活用して出荷できる体制づくりを進めています。ITを組み込むことで、自宅で出荷準備をしつつ、宅急便で各スーパーに届けます。
■画期的な仕組みですね。
スーパーと生産者、双方がタブレットを持ち、それぞれが情報発信をするようになれば、農産物の流通は変わると思います。生産者にしてみれば、「もっとおいしい野菜を消費者に届けたい」という気持ちがより強くなるのではないでしょうか。現状は、自分が作った野菜がどこで売られているのか、誰が食べているのかは分かりませんので。
■今後、CFOの視点からどのような組織を作っていきたいと考えていますか?
IPOをきっかけに、成長速度を加速させたいと考えています。そのためには、既存のビジネスだけでなく、新規事業の立ち上げが必要です。現経営陣だけでは限界がありますので、事業をインキュベートできる人材、特にブレーンのような存在を求めています。まずは社外の力を借りますが、いずれは社内で育成できる体制も整えたいと考えています。
あとは、属人化している業務の標準化をやります。システム化ですね。ベンチャー企業の成長をけん引するのは、間違いなく人です。なので、人に依存するのは仕方ありません。ですが、日々の業務が属人化しては成長にブレーキをかけてしまいます。ここから先、成長速度を加速させるためにも、業務の標準化が必要です。
■具体的な数値目標などはありますか?
スーパーで売れた金額の合計を流通総額と呼んでいますが、今期は流通総額75億円を目標にしています。来期は100億円です。ここは恐らく達成できると思います。あとは、いかに早く500億円、1,000億円を達成することですね。そのためにもやはり、先ほど述べました、「新規事業の立ち上げ」と「業務の標準化」、攻めと守りへの投資が必要になります。
■そのためには優秀な人材が必要になりますね。
そうですね。農業に興味があって、当社の経営理念に共感してくれる優秀な人材が必要です。採用も僕の管轄なので、予算との兼ね合いも考慮しつつ、人材の確保を進めています。
CFOとはひとつの役割である
■CFOとして、現在、どのようなビジョンをお持ちですか?
農産物の流通は大きく2つです。ひとつはJAによる大量流通大量販売。もうひとつは道の駅や郊外にある直売所。つまり、大きな流通網と小さな流通網しかないのです。うちの代表がいつも言っていますが、JAが悪いのではなく、JAしかないことが悪いのです。そのような流通体制を変えていきたいと考えています。そのためにも、経営資源であるヒト・モノ・カネをコントロールして、足りないところは外部から調達し、企業価値を高めていきたいと考えています。それが僕の役割だと思っています。
あとは、農業ベンチャー初のマザーズ上場を果たしましたので、その先にある東証一部への上場も一番に行きたいと考えています。
■松尾さんにとって理想のCFOとはどのような存在ですか?
そもそもCFOとはひとつの役割だと思います。ボードメンバーの一人に過ぎません。もし、営業やIR、経営企画を担当していれば、そちらもやらなければなりません。CFOになるためには経理や人事など専門が必要ですが、CFOになってしまえば、専門職ではないと思っています。大切なのは、いかに企業価値を高めていけるか、ということではないでしょうか。
■CFOもひとつの役割なのですね。
たとえばサッカーで言えば、守りだからと言って攻めない選手はダメですよね。チームとして勝つためには、ディフェンダーもときには攻めなければなりません。CFOという役割を与えられている以上、会社の守りを固める、という自分の仕事をこなしつつ企業価値を高められる。そのような人材であるべきだと思います。
■ベンチャー企業のCFOは業務内容が分かりにくいと言われていますよね。
答えはありませんので、専門職として仕事をしている人もいると思います。BSとPLの責任を負うのはCFOですからね。ただ、IPOをする際には、証券会社や監査法人に対して自社の魅力をアピールしなければなりません。つまり営業です。その点で言えば、専門的な知識はもちろん、コミュニケーションスキルも欠かせません。最終的には、社内の人員だけでなく、証券会社や監査法人、さらには東京証券取引所も仲間にするつもりで取り組むべきだと思います。そのためにはやはり、伝える力が必要なのです。
■最後に、これからCFOを目指す方へメッセージをお願いします。
まずは、会社に足りない専門性を身につけること。会社に足りない、ってところが重要だと思います。経理でも人事でも総務でも何でも構わないと思います。それがあると会社にとって必要な人材になりますし、そもそも自分自身の自信にもなります。僕の場合で言えば、経理財務や経営企画でしょうか。会社にとって必要な人材になって貢献する。そうすれば自ずと役職や役割を与えられます。そのうえで、コミュニケーションスキルを磨くことだと思います。会社の魅力だけでなく、自分自身の魅力も伝えられなければ、資金調達も採用活動もできません。CFOだけでなくボードメンバーになるためには、専門性+コミュニケーションスキルが必要になると思います。
CFOロード
バイアウト、民事再生、そしてIPO。 なぜCFOにはコミュニケーションスキルが欠かせないのか?
株式会社農業総合研究所 取締役CFO 松尾 義清氏