創業の想いを失わず、成長し続けていくために止めてはいけないもの

創業の想いを失わず成長し続けていくために止めてはいけないもの
突然だが、日本が戦争に「敗れた時」の総理大臣の名前をご存知だろうか。
あるいは、憲政史上最高齢で総理大臣に就任した者の名前と言い換えても良い。
その男の名は、鈴木貫太郎。
日本では、なぜか戦争が始まった時の総理大臣の名前だけが妙に有名だが、敗戦の年である昭和20年4月に、昭和天皇や皇太后から親しく要請をされる形で、77歳2ヶ月の高齢にして総理大臣に就いた。彼は元々、日本海軍の大将であり、日本がロシアを破った日本海海戦では駆逐艦隊を率いて、数々のロシア艦を撃沈。
大いに武勲をあげた後、老齢になって隠居生活を送っていたが、その天命とも言える運命に従い、この困難極まりない役目を引き受けることになった。

日本が戦争に敗れた本当の原因はどこに在るのか。
私はそれを、日本が「組織が成長し続けていくために止めてはいけないもの」を止めたためであると断言できる。
そして、企業経営も常にこのリスクを抱えているが、経営者はいつしか創業の熱量を失い、過去の成功体験が未来の成功を約束するものではない事実を忘れ、気がつけば同じ毎日を過ごすようになっている。
そして足を止めてしまい、いつの間にか会社は停滞することになる。

これは、組織や人が必ず陥る運命だ。
断言するが、わかっていても、知識で知っていても必ず陥る。
なぜなら、日本が戦争に破れた究極的な理由は、その源流にまで遡ると「徹底した実力主義」にあるからである。

何をバカな、と思われるかもしれないが、もしこの仮説が説得力を持つ話であると仮定した場合、恐ろしいことに気が付かないだろうか。
その真の恐ろしさとは、自分が足を止めていることに気が付かず、常に組織にとって良いと信じていることを実行し続けていたのに、それが原因で組織が崩壊し、最後の最後までその事実に気が付けないことにあるからだ。
そして、組織が一度このような文化を身につけると、その組織が大きければ大きいほど、もはや病理は治癒不可能になり、大きなダメージを伴う外科的手術のみが唯一の解決策となる。

そのようにして日本は敗戦を迎え日本軍を始めとした各種組織は「外科的手術」を経験したが、残念ながら同じ国、同じ文化に生きる私達には、生活習慣病のように何度でも同じ病理は取り付いてくる。
その事実は現在進行系で私達を取り巻く様々なところで観測できるが、それを問題視する人はあまり多くない。

ではその問題とは一体何なのか。
そして、そのような“生活習慣病”から逃れるにはどうすれば良いのだろうか。
会社を大きく育て、組織を作り上げていくステージにある経営者には、ぜひ、この大きな歴史の教訓を通し何かを学んでもらえるきっかけになれば。
そんな思いで、以下筆を進めていきたい。

INDEX
実力主義が組織を大きくし、そして滅ぼした
組織が成長し続けていくためには、必ずその組織を流動的に維持しなければならない
自分に課せられた天命を意識せよ

実力主義が組織を大きくし、そして滅ぼした

日本という国が「創業」を迎えた明治期の話をしたい。
19世紀の末は、アジア中が欧米列挙の植民地にされ、最後まで独立を守っていたのは日本とタイくらいという国際情勢の時代だ。
そのような中で明治新政府を樹立した日本は、独立を守るために非常識な勢いで国造りを急ぐ。
もちろん、そのような組織においてもっとも重要になってくるものは、人材である。
そのため、それまでは士族しか政治に関わることができなかった社会制度を革命的に改め、学問さえできれば農民出身の家柄でも、政府高官にも軍の大将にもなれる超実力主義の制度を敷いた。
それが、我が国における学歴社会、すなわち実力主義の誕生だ。
学歴社会とは、国民が出身地域や出身身分、親の職業などに左右されずに、実力次第でどのような要職にも就くことができる制度であって、極めて合理的で夢があるものだった。
そして、明治に生きる国民たちもそれを理解すれば、目を輝かせ必死に学問し、大いなるモティベーションを国造りに捧げることになる。
日本という国が、轟音を立てて成長を始めることになった、その黎明期のことだ。

更にこの時代、機能をし始めた学歴社会とは、熱意を持った若者たちが、明確な目的意識を持って国造りに参加する意思表示をする、手段そのものであったと言ってもよいだろう。
組織を大きくし、様々な制度を整えチームを作り上げていくためには、ベンチャー企業がそうであるように仕事量に対して圧倒的に人材が足りない。
しかし、強い意欲を持ち責任を背負いたがる若者は次々に会社の門を叩いてくるのである。
そしてそのために必要な学問を死に物狂いで修め、誰もやったことがない仕事に喜んで取り組み、大きな責任を任されて必死に成果を追い求めた。
まるで早いもの勝ちであるかのように仕事に群がるのは、それが本当に早いもの勝ちであることを、皆がよく理解していたからだろう。
いわば、話題になっているやり甲斐がありそうなベンチャー企業のようなもので、経営トップも尊敬に値する人物であり、さらに新しい価値観と夢を次々に見せてくれる。
その成長を心から信じられ、疑いようがない。
であれば、そんな会社はすぐに大きくなるに決まっているので、なるべく早く入社し、なるべく大きな仕事を任され、できるだけ大きな成果を上げて立身出世を果たしたいと考えるだろう。

なんのことはない、明治維新の頃に新しい国造りに参加した若者も、今の時代に魅力ある経営者のもとに集まってくる向こう見ずな若者たちも、その動機において大して変わりはないということだ。
それもそのはずで、僅か150年ほど前の出来事といえば、今を生きる私達にとって祖父母の祖父母くらいの時代である。
自分たちが祖父母と当たり前に接するように、その祖父母たちにはあたりまえのように祖父母が居て、その時代の出来事だ。
若者の集団が持つ特有の熱気など、大きな違いがなくて当然だろう。

ちなみに、明治新政府が発足した直後の明治6年。
日本政府は不平等条約の解消や、各国との正常な国交を回復するための、岩倉使節団と呼ばれる大規模な外交代表団を欧米諸国に派遣している。
この外交団は、後に初代内閣総理大臣となる伊藤博文など、日本政府の首脳と英才を寄りすぐったエリート集団だったが、アメリカではグラント大統領、イギリスではヴィクトリア女王に面会するなど、日本の国際的な地位向上のため、非常にタフな外交交渉を繰り返したことで知られる。

そんな凄い代表団のことだ。
きっと百戦錬磨の玄人集団であるとお思いになるだろうが、この代表団の全権大使を補佐するNo.2として随行した伊藤博文は、当時わずか31歳。
使節団全体の平均年齢も32歳という、今の価値観で言えば驚くほど若輩者の集団であった。

このような集団が、アメリカやフランスの大統領、イギリスの女王、ドイツの皇帝相手に堂々と日本という国家を語り、日本と正常な国交を樹立することの理を説いて、友好関係の土台を築こうと奔走したわけだ。
これもまた、おそらく若くして起業し多くのステークホルダーから力を借りることができた、あるいはできている経営者にとっては、その姿に自分自身が重なって見えるのではないだろうか。

そしておそらく、そのような経験をしている経営者にとっては、31歳の伊藤を始めとした代表団の活躍にはそれほど大きな驚きはないだろう。
人は真剣に何かを成し遂げたいと考え必死になって行動した時、そこから引き出されるポテンシャルには限界を感じることなどほとんどない。
そして大事なことは年齢でも経験でもなく、人よりも真剣に考え、人よりも情熱を持って行動すること。
それだけが思いを実現する方法であり、人を動かすことができるエネルギーになること。
それをよく知っているからだ。
この時の外交団とは、そのような熱い想いを持った若者たちの集団だった。

これをベンチャー企業のシーンに置き換えてみれば、経営トップであるあなたと同じくらい暑苦しく、全く落ち着きがなく、やると決めたら全く耳を貸そうとしない強情だがおもしろそうな連中ばかりが集まっているのである。
そして一人ひとりがその仕事に、経営トップと同じ覚悟と責任感で臨んでいる。

このような組織が成長しないはずがないだろう。
残念ながら、ベンチャー企業においては経営トップ一人のみが「伊藤博文」だが、日本という国がその黎明期において、なぜこれほどまでに急激に成長を遂げ、僅か数十年で欧米列強に伍する存在になることができたのか。
その理由の一端がご理解いただけたはずだ。
それは徹底した実力主義であり、能力があり、なおかつ責任感と強い意志があるものには、いくらでも仕事を与える組織文化そのものである。
そしてその実力主義とは、入り口において親の階級が元武士であったのか商人であったのかに関わらず、学問を修めたものから取り立てるという超平等な社会制度でもあった。

人は、わかりやすい評価が約束されている努力には驚くほどの忍耐強さで、仕事に取り組むことができる。
その意味では、経営者にとってもっとも必要なものは、評価も結果も確信できない努力をし続けるイカれた我慢強さであるのだが、そういうクレイジーな指導者は一人いれば十分だ。
強力なリーダーシップのもとでは、このようなわかりやすい実力主義が、結果としてもっとも機能した。
そしてそれは、成果を上げ続けた。

では一体、なぜそのような実力主義が日本を敗戦に導いたと言うのだろうか。
それは組織の制度やルールというものは、その時代と環境の中でのみ有効であって、極めて刹那的なものであるという事実を、人はすぐに忘れてしまうことにあるからだ。
さらに悪い(?)ことに、日本はこのような国家づくりと制度の中において世界にも稀な目覚ましい発展を遂げたばかりか、眠れる龍と恐れられていた清(中国)を日清戦争で下し、当時世界最強と言われていたロシアまでも、日露戦闘において撃破する結果を残した。

日露戦争では特に、日本海海戦において、世界最強と謳われていたロシアのバルティック艦隊をほぼ無傷で一方的に全滅させてしまったことで日本は世界を驚かせることとなり、日本はますます、「過剰な学習」を繰り返す。
それは、「これまでのやり方には一切の間違いがない。」という間違った教訓だ。

そして、実力主義であったはずの学歴主義はやがて記憶勉強に秀でた偏った能力の者だけを選抜する仕組みに変わり、学歴主義は学閥を生んで既得権益の世襲を生み出し、高い志を持ったものが世に出るという本来の機能を、完全に喪失するに至った。
しかし、学問ができるものから出世ができるという社会制度から、世界にも稀な成功体験を得た指導者の根本的な考えは、急に変えられるものではない。

その最たるものが、日本海軍で実施されていた「ハンモックナンバー制度」と呼ばれる人事制度だろう。
この制度は、海軍の士官候補生たちを教育するための海軍兵学校で導入されていた考え方で、成績の優秀なものから順番に、将来の出世が約束されるというものだ。
なおこの制度は決して目安や原則という生ぬるものではない。
20代そこそこの時代、士官になるための教育を受けた学校における卒業時の成績で、ほぼその退役(退職)時の階級や役職も決定されるという、徹底したものである。
さらに驚くべきことに、なんらかの軍事作戦が決定された際に誰を指揮官にするか、という人事の決まり方だ。
常識的に考えれば、過去の戦歴やその作戦に必要な専門知識の有無、本人の意欲と言ったところだろう。
しかし日本海軍では、1に年次、2にハンモックナンバー(卒業時の成績順)で作戦の指揮官は決定された。

どこの経営者が、社運を賭けたプロジェクトの責任者を決める際に、1に年齢、2に大学(高校)卒業時の成績順という基準を持ち出すだろうか。
しかしこれも、実力主義というモノサシから見れば、紛れもない一つのモノサシだ。
海軍兵学校における成績順というのは、いわば作戦の再現性や実行力、指導力に対し成績をつけ、順位づけしたものである。
その順位に従い仕事を与え、作戦を任せ続ける行為は、過去の成功体験から考えて特段の非合理性が見い出せない状態にあるのである。
大きな失敗がなければ、中止をする強いモティベーションになるわけがない。

更に、このハンモックナンバー制度による出世を否定することは、指導者にとっては既得権益を自ら捨てることになることにも、お気づきになるだろう。
なぜなら、自分がハンモックナンバー制度によりこの恩恵を受けて海軍の高官にまで出世できたにもかかわらず、その制度を否定すれば、あるいは新しい制度を導入すれば、もしかしたら自分はそれ以上出世できなくなるかもしれないからだ。
そして、そのような大きな制度を変えることができる立場にあるものは皆、成績優秀であることを理由に責任が任された者たちばかりである。
その制度はもはや時代に適合していないか、少なくとも運用を改めるべきだと思い始めても、誰も自分が現役の時に、そのような不利を自ら招くようなことはしない。
かくして、一つの制度が硬直的に運用されれば、実力主義という名の素晴らしい仕組みも無責任な指導者の集団が保身のために維持するつまらないものへと変質し、組織は徐々に崩れていく。

始まりは、実力と能力があるものを取り立てる為に始まった社会制度であった。
それは一定期間、実力主義という考えの下で極めて合理的に機能したが、時代と環境、そして何よりも組織の変化の中で制度そのものが硬直化していった結果、権力者の既得権益を守る手段に変わっていった。
そして、そのような組織の「自死」とも言える状況に気がつけなかった日本軍が、最後に経験することになった歴史上の事実である。

会社組織でも必ず、組織が硬直化してくるとこのように、「会社の利益」ではなく、「自分の利益」で仕事をし始める幹部が絶対に現れる。
そして、タチの悪いことに、会社にとって利益になることであるかのような口実で巧みに、自身の利益を実現しようとする。
その芽に気がついたら、必ずその場で詰みとなければならない。
小さな芽を見逃しその成長を許したら、組織はこれほどまでに愚かな行為を繰り返し、確実に自滅へと向かうことになる。

組織が成長し続けていくためには、必ずその組織を流動的に維持しなければならない

ここまで読み進めて頂いたとき、読者の人は
「戦前は情報も僅かだし、間違えることも多かっただろう」
というような感想をお持ちになるだろうか。
それとも、
「歴史を俯瞰して後から間違いだったというのは簡単だ。今の時代も後世の歴史学者が見れば愚かなことばかりだ」
と考え、日本は既に歴史の教訓から学び取ったものを今の組織づくりにフィードバックできていると、そう考えるかもしれない。

しかしその指摘は、残念ながら必ずしも正しいとは言えない。
分かりやすさと話の一貫性を維持するために、その事例を日本海軍に続いて海上自衛隊に求めてみたい。
例の「ハンモックナンバー制度」だ。
日本海軍においては、その士官に採用される段階で教育を受けた海軍大学での成績で、ほぼ一生の出世と、与えられるポストの重さが予め決まっていたことは、既に説明したとおりだ。
そしてその結果、重要な局面においても硬直的な人事を繰り返し行われ、極めて稚拙な作戦指導と用兵で、世界有数の精鋭を犬死させる結果に終わった。

そのような歴史もあるので、海上自衛隊はこのような制度を完全に放棄し、新たに合理的で画期的な組織運営をしているはずだろう。
おそらくそうお思いになるかもしれないが、残念ながらその答えはノーだ。
むしろ「平時の軍事組織」の限界とも言える事情もあって、このような組織運営はますます強化されているきらいがある。
今も、海上自衛隊(というよりも自衛隊)の幹部人事は、まず幹部自衛官として入隊後に必ず入学する、幹部候補生学校。
この候補生学校時代の成績で大きく将来が決まる。
そしてその後、一定年数部隊で経験を積んだ後に受験することになる海上自衛隊幹部学校、これは日本海軍の海軍大学に相当する組織だが、幹部学校における修了成績で最終的な出世コースは完全に決定づけられ、どこまで出世できるかを決める幹部としてのランク分けが、完全に完了する。
この制度は今もハンモックナンバーと呼ばれており、もちろん、成績上位者が不祥事や何らかの重大な服務事故を起こすと出世街道から外れることはあるものの、成績下位者が優良な勤務成績をもってして突然成績上位者より抜擢されることなどまずありえない。

このように、部内における学習機関での成績で能力を全てランク分けする制度は、一つには先述のように平時における「軍事組織」の限界がある。
平時においては言うまでもなく戦闘において“手柄”をたてることができない。
そのため、軍人としての組織運営の巧拙や極限状態における限界能力を基準とした人事が事実上不可能なため、学習や演習による想定で付けられた成績で能力を推し量らざるを得ないという側面があるからだ。
また一方で、やはり海上自衛隊の基礎を築いたのは日本海軍の時代、海軍兵学校や海軍大学で教育を受けた者たちであったため、他に人材の評価方法を知らないという事情も大いに影響しているだろう。
このようにして、歴史の教訓は熟知しているにも関わらず、今もハンモックナンバー制度の本質は、その後継組織である海上自衛隊に色濃く残り続けている。

しかし、企業経営の参考にしたい本質はここからだ。
では、そのような組織で今現在勤務をする海上自衛隊の幹部たちは、このような人事制度、ハンモックナンバー制度に否定的であるかどうか、という話である。
もちろん海上自衛隊の幹部である以上、日本海軍がどのような組織上の問題を抱えており、そしてそれがどのように作用して敗戦に繋がっていったか、ということは熟知している。

私はこのハンモックナンバー制度について、数年前に佐官(1佐~3佐、昔の大佐~少佐に相当)で引退したばかりの元幹部と、議論できる機会があった。
詳細は本論から外れるので、要旨のみを書き出すと彼は、

  • ハンモックナンバーは、組織の規律を維持する為に合理的な制度である
  • 成績下位者はどこかの段階で努力を怠り、与えられた任務(勉強)に妥協をした者であるため、登用されるべきではない理由がある
  • そのような、努力を怠る人物に激務を課しても、任務を遂行できない可能性が高い

と、概ねハンモックナンバー制度を前向きに捉えている話をした。
なお、この元幹部自衛官ご自身はハンモックナンバー下位であったため、出世はとても望めないので、幹部候補生学校卒業時には熱意を相当失っていたとも述懐されていた。

早い話が、この制度の恩恵を受けているものはもちろん、恩恵を受けていないものでも納得度の高い精度として、ハンモックナンバーは存在している。
だからこそ、今も存続している側面があるということだ。
熱意を失った幹部でも機能するという人材の厚さや、仕事に対するそもそもの責任感という意味で、中小やベンチャー企業とは大きく異なるという背景も無視はできない、ということはあるだろう。
しかし、自分たちの前身にあたる組織がかつて、敗滅するに至った遠因とも言える制度である。

長年過ごした組織であれば、その問題点を理解しながらも肯定的に捉える考え方が先に立つということなのかも知れない。
あるいは、本当にもっと深い合理的な理由が存在する可能性もあるだろう。
その一方で、結果として多くの軍事に関する専門家(その中には、防衛大学校の教授も含まれる)や経営学者が指摘する問題点に対して、未だに明確な解答を出せていないことは間違いないようであった。

時代は違えど、同じような文化を持ち、同じような感受性を持つ私たち日本人が作り上げる組織である。
敗戦というこれ以上ないインパクトを経ても、変わりようがないほどに、私たちのオペレーションには同じようなところをループする習性があるという事実を受け入れる必要が、間違いなく、ある。

この事実を前にして、多くの中小・ベンチャー企業経営者は、
「うちの会社ではそんなことは絶対にありえない」
と感じることだろう。
確かに、あなたの会社では大学時代の成績表にいくつ優があるか。
もしくはどこの大学を出ているか、という理由だけで部長までの出世を約束し、あるいは役員にすることはまず無いはずだ。
その意味では、絶対にあり得ないといいたくなるのもわからないではない。

しかしあなたの会社には、創業期から長年に渡って会社を支えてくれた番頭を、その長年に渡る功績から部長に据えているということはないだろうか。
さらに、他に優秀で意欲にあふれる若者が入社してきているにも関わらず、その部長の部下に付けている事実は本当に無いだろうか。
厳しいようだが、この人事制度も、結局のところ形は違えどハンモックナンバー制度の延長であり、もう何十年も昔に立てた手柄や実績を元に、今の人事制度を決めているに過ぎない。
何十年も前の成績で出世を決定する制度と、本質的な違いは全く無い。

更にタフな質問をしてみたい。
あなたの会社では、一度部長に昇進させた幹部を、ある仕事を任せる際に適任ではないという理由で課長に降格させ、若手の社員を部長に据えたことが在るだろうか。

大会社であるならまだしも、中小ベンチャー企業では通常、部長に据えるような人材であっても、あらゆるプロジェクトに広く能力を発揮してくれる事態はまず想定できない。
場合によってはその部下の課長の方が、特定のプロジェクトに関しては、部長よりも適任であるために暫定的な責任者に据えるべきである、という合理的な結判断ができる局面もあるはずだ。
にも関わらず、ほとんどの会社では部長の指揮のもとで課長に事実上の責任を与えるような、責任と権限が極めて曖昧な仕事の運用を行っていることがほとんどだろう。
そして、その結果は、上手く行けば部長に手柄を取られた課長にとってはどこかつまらない思いをすることになり、また失敗した場合、部長・課長ともに納得感のある処分や評価を下すことが難しい微妙な状況になる。

どう考えても、仕事の多くは部門長を置くとしても固定化せずに、プロジェクトごとに最適任者を任命する、流動的な組織を置くような仕組みにしたほうが合理的であり、おそらく経営者であるあなたも漠然とその可能性は感じるはずだ。
しかし実行はできない。

なぜか。

ここで先程、海上自衛隊の元幹部が真っ先に挙げた理由を思い出して欲しい。
ハンモックナンバーは、組織の規律を維持する為に合理的な制度である
というものだ。

おそらく同様に、一度部長職に引き上げた古参幹部を、ある特定のプロジェクトのために若手で後輩の下につけたら、組織は上手くいかなくなる。
何よりも、本人のモティベーションに致命的な悪影響を与えると考えるかも知れない。
そのため、合理的ではないことを承知の上で2階建てのような指揮系統を作り、部長のもとにプロジェクトを指揮する若手責任者を設置するだろう。

一方で、最初からプロジェクトごとに責任者が変わることを前提にしてしまえばいいのではないか、という発想はどうだろうか。
そうすれば、責任者を「降ろされる」ことに組織運営上の軋轢や妬み、責任者個人の失望感や喪失感は相当量、抑えられるはずだ。
人は、一度部長に昇れば役職を降ろされる事がありえるという考え方に馴染んでいないために、経営者の真意を読み損ね、このような人事を実施すると必要以上にナーバスになってしまう事が、どうしてもある。
であれば、常時そのような状態を維持し、制度に盛り込んでしまえばいいということだ。

この人事制度を既に100年近くに渡り、実施している組織がある。それが、アメリカ海軍だ。
第二次世界大戦の時代ももちろん、今も変わらない米軍の軍事制度だが、米軍では平時に置いては、昇進するのは少将までとなっている。
そして何らかの軍事作戦や大きなミッションが発生すれば、その内容に応じて最も適した指揮官を少将の中から選び出し中将に据え、責任者に任命する。
そして中将は年次や過去の成績・戦果に関わらず、その他大勢の少将を部下に組み込み任務に臨むが、ミッションが終われば、再び少将に戻ることになる。
そして成果を上げたものはまた再び中将を任される機会に恵まれるが、悲惨な失敗をしたものはそこで終わり、というわけだ。

このような組織は、常に権限や権力が一箇所に集中することがない。
そのため、無意味な既得権益やつまらない上司への気遣いなどといった情実が、必要以上に組織に溜まり込む可能性を大いに排除できるだろう。
経営者から見ても、新たな仕事を誰に任せるのか、と考えた時に、
「これは新商品に関する仕事なので、新商品担当常務に振ろう」
というどうしようもない発想ではなく、
「今回の開発はコストを限界まで抑えるためのテストケースなので、財務部長を最高責任者に据え、その下に開発部長と製造部長をつけよう」
という発想にしてもよいはずだ。
プロジェクトの目的が明確であればあるほど、そのプロジェクトの性質に応じた幹部を、本来であればトップに据えることこそ望ましい。
であればこのケースのように、新商品の開発責任者を営業部長や経理部長、もちろん製造部長が務めても良いということになる。

そのようにして、大きなプロジェクトをまとめる能力、すなわち経営者としての能力を示すことができたごく僅かなものだけが、役員にたどり着ける仕組みにする。
そのようにすれば、経営トップにも幹部にも、非常に納得度の高い組織運営に近づけることができるだろう。
もちろんそこには、古くからの幹部であるという理由や、大昔の素晴らしい成績で出世が約束されるという価値観は存在しない。

逆に言うと、組織とはここまで常に緊張感を維持し、常に流動的で形を保たない状態を維持しない限り必ず動脈硬化を起こし、組織は硬直化するということだ。
そして、なぜ存在しているのか意味の良くわからないルールに縛られ、現状を良くする努力をしているという錯覚の中で、ある日突然心筋梗塞を起こし、突然死する。

元々は、経営トップであるあなたが成長という目的に対し純度を失ったことが原因ではあるが、組織が一度硬直化してしまえば、あらゆることを決定する権限を持つオーナー経営者と言えども、その状態を立て直すのは極めて厳しいだろう。

組織が成長し続けていくためには、必ずその組織を流動的に維持しなければならない。

自分に課せられた天命を意識せよ

その上でだが、「組織が成長し続けていくために止めてはいけないもの」の中で、もっとも大事なもの。
それはやはり、経営者自身の、仕事と会社に対する溢れるばかりの熱量そのものであることは間違いないだろう。
経営者の想いが空回りし、あるいは成長が強制的に止められてしまわない為にも、組織を流動的に保つべきお話は差し上げたが、仮に組織を流動的に維持できたところで、経営者の熱量が落ちてしまえば、組織は直ちに浮力を失って失速する。

ではなぜ、創業経営者は時に、自分の熱量が落ちていることを不意に自覚してしまうことがあるのだろう。
いろいろな理由はあるだろうが、それは総じて、現状に対し何らかの満足を得てしまったからだ。
金銭的な充足、十分な名声、組織が順調に機能していることへの満足感、もしくはIPOを果すなどの一定の達成感といったところだろうがもちろんこれらに限らない。
そして、もしこれらのことに心あたりがあるのであれば、そんな志の小ささでは、経営者に必要な溢れるばかりの熱量を維持できるわけがない。

そんな小さな満足に浸っている経営者に付ける薬は中々無いが、せめて一つ、利益や資本は世間からの預かりものであるという当たり前の事実にぜひ、思いを致して欲しい。
自分が影響力を行使できる資本や人材、人脈は全て、自分が作り上げたものではない、と言う事実だ。
先人が築き上げた社会の仕組みや制度、そこで一生懸命学び、会社に貢献することで社会の一員でありたいと願う従業員、多くの人の思いを乗せた預かりものである資本金。
自分自身の能力ですら、自分ひとりの力で得たものなどごく一部のものであるはずだ。

話は冒頭に紹介した、日露戦争の時代に戻る。
日本がロシアを破り、世界を驚かせた日露戦争だが、その陸軍の総参謀長を務めた男に児玉源太郎という男がいた。
下級武士の出身で、軍歴は20人程度の部隊長から始まった叩き上げだが、日露戦争では20万人を超える日本軍を率い、奇跡の勝利を上げて世界を驚かせた。

そしてその一生は、常に中国やロシアの驚異からどのようにして日本の独立を守るための国防力を身につけるか。
その一点に注がれ、日本の国家建設に熱い思いを注ぎ続けた人生だったが、日露戦争奇跡の勝利からわずか10ヶ月後に、ある日の朝、突然の病死を迎える。
享年54歳という若さだったが、最後の最後まで国家に尽くし続けた人生であったにもかかわらず遺された財産はわずかに自宅のみで、現金はほぼ0。
当時の陸軍大将といえば閣僚級の高官だったにもかかわらず、遺された家族は生活にも困るほどに、児玉は何一つ財産らしい財産を残さなかった。

児玉が持ち続けた、最後まで覚めることのない仕事への熱量は、おそらく武士道精神を叩き込まれ育った最後の世代として、
「一将功成りて万骨枯る」
という言葉の意味を忘れなかったからだろう。
自分がいくら功成り名を挙げたとはいえ、その裏には何万もの兵士たちが死んでいった事実がある。
名誉や富貴といったものがどれほど虚しいものなのか、それらは全て、自分一人が成し遂げたものではない、という自戒の思いだ。
だからこそ自分は、多くの人の思いを受け継ぎ実現し続ける義務がある。
そんな天命を悟った上での仕事への情熱であり、最後まで冷めるはずがない熱量であったのだろう。

最高齢総理大臣としてご紹介した、鈴木貫太郎もそうだ。
もはや現役の政治家や軍部には、誰一人この亡国の戦争を終わらせることはできない。
このままでは、日本と日本人は根絶やしにされるまで無駄な抗戦を続けるだろう。
この状況を止められるのは、日露戦争以来の元勲で、軍部にも政治家にも広く顔が利く自分しかいない。
そう悟った貫太郎は、ただ敗戦を受け入れるためだけに総理大臣になり、そして昭和天皇の願いどおりに終戦工作に成功する。

なお、言うまでもなく戦争は始めることよりも終わらせるほうが何百倍も難しい。
そのため貫太郎は終戦を迎えるその日まで命を狙い続けられるが、1945年の8月15日にポツダム宣言を受諾する旨の玉音放送が流されることを悟った一部の陸軍将校は、前日の8月14日、クーデターを計画し政府首脳の命を奪うべく、皇居や総理官邸になだれ込んだ。
貫太郎は既に、そのような動きを予期して事前に手を打っていたので難を逃れ玉音放送は段取りどおり放送されるに至ったが、これには伏線がある。
実は貫太郎は一度、昭和11年に起きた2.26事件でも陸軍の襲撃を受けており、この時は頭部と胸に3発の銃弾を打ち込まれ、一度は心停止するほどの危篤状態に陥ったことがあった。

終戦工作に乗り出した際も、おそらく自分は殺されることになるだろう。
文字通りその事実を体で知っていた貫太郎だったが、自分に課せられた天命から逃げることをせず、77歳の、今に至るも史上最高齢の老齢で総理大臣に就任し、日本を滅亡の危機から救った。
そして終戦工作を成功させると、8月15日のうちに総理大臣を辞職。
日本が平和を回復したのを見届けた1948年4月、敗戦の受け入れから2年8ヶ月後にこの世を去った。

歴史上の人物の生き方を借りて少し大きな話をしたが、組織を率いるリーダーには、その組織の大小にかかわらず天命があるということだ。
天命という言葉が大きければ、その立場に自分がある必然の理由、と言ってもよいだろう。
そして本当にリーダーシップを発揮し、大きな仕事を成し遂げたリーダーたちは自分が成すべきことを理解し、その必然から逃げるという発想がない。
当然のことながら、仕事に対する情熱や熱量などは、多少の波はあっても根本的に失われることなどない。

そして今も、このような歴史に残る偉人たちと同じ、子供のような目をして仕事をし続ける経営者がいる。
街の小さなレストランから初めて、日本を代表するファミレスチェーンに育て上げたすかいらーくの創業者・横川竟(よこかわきわむ)だ。
横川は、すかいらーくを巨大企業に育て上げ東証一部上場も果たすが、その後業績不振で2008年にすかいらーくを追われ経営の一線から退く。
しかし、「お客様を喜ばせたい」という事業への熱意は全く冷めること無く、2013年6月には76歳にして「懲りもせず」またも新規事業を立ち上げ。
外食産業各社から人脈を活かし、優秀な人材を次々に引き抜き、2014年には法人化の上で、現在都内を中心に展開する大人気のカフェを経営する、凄い熱量とパワーを見せつけている。

なお、そのお店の名前は高倉町珈琲。
テレビ朝日系の情報番組でその独特のパンケーキが紹介されてから人気に火が付き、創業から5年で19店舗まで拡大する人気となっているので、おそらく知っている人も多いはずだ。

横川は、
「男であれば80歳までは働かないといけない」
と公言しているが、先日、事実上の引退とも言える処遇になったマリナーズのイチローも同様に、これは引退なのかと訪ねたメディアに対し、
「ボクが引退を意識し始めるのは、きっと杖を突き始めた時だ」
と返した。

自身の思いの実現に、どれだけの障害があっても、水をかけられても、一向に冷めることがない非常識な熱量。
組織が成長し続けていくために止めてはいけないものは、一つには組織が常に成長し続けられるよう硬直性を排除し、柔軟性を維持することであることは間違いないが、その組織に浮力を与えるのは、やはりこのような経営者の熱量であることも、同様に間違いない。

だからこそ、気持ちの波で創業の熱量を失うようなことがあれば、ぜひ再確認して欲しい。
自分の天命とは、その程度のことだったのかと。
つまらないことを考える時間すら無駄に思えるほど、熱い気持ちが再び戻ってくるはずだ。