かつて日本では「キャリア」に悩む必要は殆どなかった。
なぜなら、高度成長時代はキャリアと呼ばれるものが一つしかなかったからだ。
すなわち、自分の学歴に応じた会社に入り、そこで真面目に働き、少しずつ技能が向上するとともに給料が上がって、そのまま定年まで働く、というものである。
例えば、社会学者の山田昌弘氏は、著書の中で次のように指摘している。
戦後高度成長期の最大の特徴が、「多くの男性従業員が、企業内で昇進して、より高い収入が得られる地位に辿り着くことができた」という点である。
これは、戦前や一九九〇年以降では、考えられない状況であった。例えば、中学や工業高校を出て企業に入社した若者は、機械の使い方を学びながら、徐々に仕事に習熟し、熟練工から現場責任者、更には、技術者や工場長になるのも夢ではなかった。
理系の大学を出れば、技師から始めて、工場長から役員になるものも多かった。
商業高校を出て企業に入れば、事務や営業から始めて、経理や営業に習熟して商売のやり方を覚え、中間管理職となり、支店長まで昇進することも珍しくなかった。
文系の大学を出れば、最低限上場企業には入社でき、中間管理職にはなれた。その上で、役員への道が開かれていた。
出典:山田昌弘.希望格差社会――「負け組」の絶望感が日本を引き裂く(ちくま文庫)
「どのような人物であっても、与えられた環境の中で頑張れば、職と昇給が保証される」
これは非常に多くの人にとって非常に魅力的な提案だった。
したがって「あなたのキャリアをどのように形成しますか?」という問いは、今から40年ほど前までは存在しなかったのである。
だが、寿命が伸び、終身雇用が崩壊した現在、「キャリア形成」は働く人にとって非常に重要な問題の一つとなった。
つまり
「どこで働くか」
「どのような仕事をするべきか」
「転職するか、残るか」
といった問いに対して、適宜、自ら最適な答えを出してゆかなければ、「昇給」はおろか「職」さえも保証されなくなったのである。
これが、現代人にとって非常に大きなストレスの一つであることは言うまでもない。
例えばFacebookのタイムラインを覗くと、
「やりたいことをやろう」
「楽しく仕事をしよう」
という言葉が踊っているが、こういった状況は、ストレスフルなキャリア選択に対する反動と言える。
どんな選択をしたとしても、リスクが高く、不安が消えないのならばやりたいことをやって、楽しい方がいいじゃないか、という人も多いのだろう。
だが、実際に
「やりたいことをやる」
「楽しく仕事をする」
を実践して、失敗する人は後を絶たない。
なぜなら、大抵の人の思い描く「自分のやりたい仕事」はイコール「他の人から羨望される仕事」であるし、「楽しい仕事」は、「単に享楽的な刺激がもらえるだけの仕事」に過ぎず、そういった状況は長続きしないからだ。
仕事の楽しさは環境によってコロコロ変わるし、他者からの承認など、そうそう得られるものではない。
かくして理想を追求した結果、その人物は、次の承認と刺激を求めて、パット見て格好良さそうな職を渡り歩く……というわけである。
もちろんこれは、本質的なリスクヘッジと不安の解消にはつながらず、最終的には職も昇給も失う……ということになりかねない。
それを見て昭和を忘れられない大人たちは、「それ見たことか」と、ほくそ笑むのである。
しかし、その一方で「本物」も中には存在する。
やりたいことをやって、楽しく仕事をして、そして大成功する人たち。決して少なくない数の人々が、これを実現できている。
例えば、私の身の回りにもこんな人がいる。
・農村を本気で復興すべく、農業法人を運営する人
・webサービスを立ち上げ、海外に展開する人
・NPOで人道支援に人生を捧げる人
・介護と福祉の団体を立ち上げ、著書を出した人
彼らはいわゆる「金持ち」ではないかもしれない。
だが、充実した人生を送り、そして何より人生に満足している。
*****
そこで気になるのは、おそらく「両者の間の差は一体何なのだろう」という話だ。
何故一方では楽しい仕事を追求して失敗し、なぜもう一方は逆の結果になるのか。
私がそれを間近で見たのは、ある品質改善プロジェクトであった。
全社横断的なプロジェクトであったため、各部門から1名ずつ人を出していくにあたり、
「メンバー選定を手伝ってほしい」
と言われたのである。
私は各部門で、経営者よりそれなりの能力を持つと目された候補者と一人ひとり、面接を行った。
その中で、二人、対照的な人たちがいた。
「楽しそうだ」と、快くメンバーを引き受けてくれたTさんと、「気は進まないが、指名されたので引受けざるを得ない」というFさんだ。
当初はTさんの方がモチベーションが高く、プロジェクトに貢献してくれるのではないかとトップは期待していた。
Tさんは「任せてください、会社を変えてみせます」と、意気込みもあり、キックオフの後の飲み会でも、一番張り切っていた。
逆にFさんは、「あまり気は進まない」「私が入ったところで大して意味はない」と、ネガティブな発言が目立ち、トップも「まあ、彼は経歴も長いし知識もあるので、何かしら役に立つでしょう」というくらいの位置づけであった。
しかし、蓋を開けてみると、この2名の活躍は全く予想の逆であった。
Tさんは、与えられた宿題を締め切りまでにこなせず、「現業が忙しい」と、いつも言い訳ばかり。
対して仕事もせず、元気でやる気を見せるのは全社の定例での発表のときだけ。このときは「選ばれたオレ」感を出す。
一方Fさんは、出された宿題を着実にこなし、半年後にはプロジェクトの中では不可欠のメンバーとなっていた。
特に、ミーティングで議論をする時の準備にかなりの時間を割いてきているようであり、彼の集めてくれたデータのお陰で意思決定が容易になったシーンが数多く存在した。
そしてあるとき、プロジェクトのリーダーがFさんに聞いた。
「プロジェクトは未だに気が進まないですか?」
リーダーは、ネガティブな発言が目立っていたが、活躍してくれているFさんをねぎらうものであったと思う。
だが、Fさんの回答は意外なものだった。
「いいえ、当初は気が進みませんでしたが、どうせやらなければならないのであれば、きちんと結果を出そうと。そうしたら、なかなか楽しくなってきました。結果も少しずつ出てきていますし。」
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TさんとFさんの話には本質が含まれている。
それは「楽しい仕事とは何か」という問いに対しての解答だ。
Tさんにとっての「仕事の楽しさ」は、刺激と見栄えであった。
新しいこと、誰かが着目してくれること。そういったことが、彼にとっての楽しい仕事であった。
だから、彼は数カ月もすれば、仕事に飽きてしまい、別のことを欲するようになった。
成果が出るかどうかは、彼のビジョンの範疇には含まれていなかった。
一方、Fさんにとっての「仕事の楽しさ」は、成果を出すことであった。
彼がネガティブな発言をしていたのは、やる気が無いからではなく、「成果を出すこと」について、彼が事前には自信を持っていなかったことに起因する。
だが彼は「やるからには成果をあげる」と決意し、そのために尽力した。
結果的に、努力によって彼は成果を勝ち取り、彼は仕事を楽しいものとした。
どちらの人生が望ましいか、と問われれば、これは個人の価値観の話であるから、比べることはできないだろう。
しかし、成功するのは明らかに、Fさんである。
仕事において、楽しさと成功を同時に手に入れようとすれば、
「楽しさ」を目的としてはならない。
あくまでも仕事の楽しさは目的ではなく、成果を出したあと、結果として生まれるものだ、
それを、多くの優秀な人は知っている。
こう言うと「粘り強くやれ」という説教にも聞こえるかもしれないが、そうではない。
「楽しく成功する人」は、必ずしも一つの仕事に固執しない。
彼らは時に、「結果」を出せそうな仕事に次々鞍替えするし、成果を出せそうだ、と自信のある領域においては、逆に信じられないくらいの粘りを出すのである。
要は「プロセス」を人生の主眼とするか、「成果」を人生の主眼とするかのちがいだ。
楽しいだけの仕事を選んで失敗する人は前者、真に楽しい仕事を選んで成功する人は後者であり、その決定的な差とは、「楽しい」をどのように捉えるかに依存するのである。