規模が小さな時はひとりひとりの顔が見え、多くを語らずとも意思疎通が可能であり、また実際に多くのコミュニケーションを取ることが出来るということもあるだろう。
その時は、こじんまりであっても組織が組織として機能した。ところが組織が大きくなり、50人規模を越えるか、あるいは支店や営業所などを出すと、とたんにそのマネジメントは難しくなる。
ましてこれがものづくり系の会社であれば、同じ売上であっても従業員規模は大きく膨らみやすいため、さらに困難さが上乗せされる。
そしてそこでは、社長の名前も顔も知らない社員やアルバイトも働き始め、こうして組織はどんどん「経営トップの純度」を失い、パフォーマンスがどんどん低下していくことになる。
それはなぜか。
ひとことで言って、経営トップという生き物は、基本的にバカだからだ。
私は今まで、CFOの立場で何人かの経営トップと共に仕事し、また社外役員の立場で何人かの社長と呼ばれる人たちと仕事をしたことがあるが、その人達は例外なくバカであった。
そのバカさ加減といえば、まるで幼稚園児並みである。
言い出すことは支離滅裂で、いっちょ噛みしただけの仕事はすぐに放り出し、次に興味を持ったことにすぐに目移りする。
一緒に夜の街を歩いていると、一瞬で見失ったかと思えば、怪しいおもちゃを売る外国人の露天商と話し込んだり、とにかく行動が読めない変な男もいた。
仕事に対する姿勢も概ねその延長にある事が多く、朝令暮改などは当たり前である。
色々と興味深い話を持ち込んでは来るが、最後までやり切ることはない。
仕事は降りてくるが、そのゴールで何をしたいのかわからない。
こういった経営トップがものづくり企業で少し会社を大きくすると悲惨だ。
なぜなら、コストは垂れ流しになり、誰もその尻拭いをするものがいないのだから。
そして、客観的な経営状況の把握ができているものが社内に誰もいなくなる。
なぜ経営トップは、こんなことになってしまうほどにバカが多いのか。
実は、その答えは簡単だ。
会社を大きくするような素質がある経営トップは、ルーティンワークなどに興味が無いのである。
仕事を作り出し、新たな可能性を作り出し、従業員やステークホルダーをワクワクさせるような仕事を作り出すことが出来る人間とは、概ねこんなものである。
創業期こそ自ら手を動かし汗をかき作業者になった時期があるかもしれないが、もし経営者がその場所に居心地の良さを感じたら、その会社は5人ほどの規模で推移するだけであり、マネジメントの問題など発生しようもない。
しかし、マネジメントの問題を感じるような規模に成長してしまった会社の経営者は、その場所に居心地の良さを感じなかったということだ。
そして、あるいは
「このサービスをもっと広く展開したい」
「このパターンを横展開すれば、すごいことになるかもしれない」
「これを突き詰めれば、今ある世の中の仕組みをひっくり返せるかもしれない」
など、人それぞれに何かのスイッチが入ってしまったことで、まるで新しいおもちゃを手に入れた子供のようにはしゃぎだす。
そしてそのような経営者は、大きな目標を持った時に初めて気がつく。
「1日は何でこんなに短いんだ」
「人生は何でこんなに短いんだ」
と。
そうなればもはや、手がつけられない悪童の暴走が始まるだけだ。
自分だけが見えている目標に対し、5年、10年といったスパンで走り始める。
この段階になると、もはや出した指示は出しっぱなし。
着手した仕事は、道筋をつけると誰かに振り、想定通りに進んでいるだろう考え、別のことをやり始める。
しかし振られた方は権限もなければゴールも見えていない仕事に対し、満足な納品物など収められるはずもない。
このようにして「バカ社長」は、さらに自分の思い通りに組織が動かないことに気付き始める。
業績が伸びている企業で、往々にしてよく見た光景であり、そしてこれからもそれが延々と繰り返されるだろう。
イラチな経営トップはこの時、部下を罵倒し短気を爆発させ、さらにドツボにハマる。
冷静な経営トップは、一瞬だけ足を止めることを覚え、
「何故うまくいかないのか」
を自問するが、結局答えが出ないまま、また走り出す。
大体にして、このような現象が出始めるのは、創業企業の場合では従業員規模が50名を越え始めた頃からではないだろうか。
これくらいの規模になると、年商は少なくとも10億円は越えており、これくらいの規模の会社では、足元の利益だけで従業員を食わすことなどできない。
安定的な利益(つまり、いつなくなるかわからない利益)と、将来の利益の2本の考え方が必要だ。
そうなると経営トップはどう考えるか。
安定的な利益を出すルーティンワークは、その仕事に慣れている従業員に任せておけばしっかりと回り、利益を上げてくれるだろう。
しかし、将来の利益の柱になるであろう事業など、自分以外の誰かに考えられるはずがない、と。
このようにして経営トップは、直ちに金を生み出さない、何をしているのかよくわからない事をやり始める。
そしてその間、金を生み出すルーティンワークをしっかりとこなしている従業員はこう毒づく。
「うちのトップは仕事を放り出して遊んでばかりいる」と。
従業員と経営トップの間というものは、これほどまでに溝が深い。
かつて、「チーズはどこに行った?」という極めて簡素でありながらベストセラーになった本があったが、食べきれないほどのチーズの山を前に、一生安泰であると嬉しくなってしまったネズミの話である。
そのネズミは働くことをやめ、毎日遊び暮らし、そして少しずつチーズを食べ続けるが、ある日そのチーズが全て無くなってしまったことに気がつく。
そしてこうつぶやいた。
「チーズはどこに行った?」
経営トップにとっては、今収益を上げている仕事というものは目の前にあるチーズの山だ。
それは今利益をもたらしていても、近い将来になくなるものである事がわかりきっている。
それを食い尽くす前に、次のチーズを見つけないと会社ごと死ぬことがわかっているので、ルーティンワークなどやっている場合ではないのだが、そのような考え方はなかなか伝わらないし、そんなことを敢えて説明するような経営トップもいない。
中小企業の幹部教育とは、正直に言ってこの程度のものだ。
経営トップの想いを理解し、それを形にする強い意志を共有してくれるかどうか。
経営トップはこのような社員を心から待ちわびている。
ただし、先述のように経営トップとは悪童でありやんちゃ坊主でありメチャメチャである。
そんな経営者には、役員が必要でありCFOという専門知識を持った参謀が必要不可欠なのだが、そのポジションを目指すからには相当な覚悟を持って欲しい。
しかしその覚悟を持ち、経営者を支える強い気持ちを持つことができれば、実は役員やCFOなど誰でも出来る仕事だ、といえば言い過ぎだろうか。
以下、なぜこのような経営トップにはCFOや役員が必要なのか。
経営者の想いを理解できる人材が必要なのか、といったことについて詳述して行きたい。
経営トップと役員の役割分担とは
0を10にする能力と、10を100にする能力はまるで違う素質を必要とする。
そしてその両方を経験した立場から感じることは、10を100にすることはそれほど難しいことではないが、0を10にする力は相当なものだ。
そしてそれは、力だけでなく、周囲の助力や時勢を得た飛び出し方、それに幸運を必要とし、それらの要素が整わなければほとんどの場合失敗する。
だからこそ、創業から5年以内に90%近い会社が事業の継続を諦めるわけだが、このような能力に恵まれる経営者は概ねリスクに鈍感だ。
リスクに鈍感というよりも、リスクを恐れる必要がないものだと思っていると言った方が良いかもしれない。
そして新たな付加価値を生み出すために前進をするわけだが、そうなるとそれを跡から追いかけ、形にしていく役員の存在が必要だ。
恵まれた会社であれば、それがCOOであり、数字の裏付けで支援をしてくれるのがCFOである。
この場合のCOOとは、経営トップの思いを具体的な業務に落とし、ルーティンワークとして完成させ、その執行に責任を持つ者のことである。
つまり、足元の利益を確保する最高責任者と言っていいだろう。
そしてCFOとは、ルーティンワークを回すために必要なデット(銀行借り入れなどの間接金融)を手配し、経営者の思いを形にするための将来投資であるエクイティ(株式などの直接投資)を調達できるもののことだ。
デット&エクイティのバランスを使いこなし、まるで魔法のように会社を切り盛りするわけである。
楽しそうに思えるかもしれないが、夢の中でまで預金残高の悪夢を見る仕事だ。
そして少数の会社から始まり、成長を始め規模が大きくなってきた会社は、このような存在が必要不可欠であるにも関わらず、そのような人材がそうそういるはずもないところで経営者の戦いが始まる。
会社の成長を諦めその規模で立ち止まるか、もしくは社内から人材を育てるか、あるいは外部から人材を調達するかだ。
この際、もっとも望ましいのは、会社の成長とともに社長の意識レベルにキャッチアップする努力をしようとする社員の存在である。
それは努力というよりも、まずは社長の考え方を理解しようとするだけでも構わない。
それだけでも、おそらく近い将来の幹部社員候補になることは間違いない。
後は会社が成長していく中で、どれだけ具体的なスキルを身につけることができるか、というだけだ。
そしてその具体的スキルなど、ちょっと真面目に仕事をする気があれば誰でも出来る程度のものであり、実は大したことではない。
というよりも、COOやCFOの実力というものは、成長の場数を踏み、多くのイレギュラーな事例を捌き経験したか。
そして経営トップとともにどれだけの成功体験をし、失敗体験をしたか。
それに尽きると言ってもいいだろう。
このポストのスキルだけは、本を読んでも自己啓発本を読んでも絶対に身につかない。
大学で4年間、経営学部で学んでも、現場で役に立つスキルなどまず手に入らない。
そしてこの際、COOであれCFOであれ、そのスキルとマインドをもっとも成長させてくれるのは「バカ社長」の存在だ。
次から次へと無茶振りし、形にならないまま現行の仕事をほっぽらかし次の仕事に行く。
そうなれば、現場を任されたCOOや数字を任されたCFOは、まずルーティンワークを作り上げる組織やルールを作らなければならない。
さらに人の採用をする必要もあれば、雇用契約や業務委託契約と言った契約書にも通じていく必要があるだろう。
外部のエクイティを受け入れていれば、「遊び回っている」経営トップに代わり株主周りをする必要があり、当然そこにはエクイティの知識が必要不可欠になる。
さらに経営状況の説明をするのであれば、自社の経営状況と見通しを定量的に説明するスキルが必要になってくる。
決算書を読めることはもちろん、その勘定科目が持つ意味を理解し、経営のメッセージとしての数字に置き換えた上での説明も必要だ。
そしてこのような仕事を全て、経営トップはCOO以下に任して、次の仕事に向かうのである。
誠に無茶ぶりである。
しかし、逆の立場で考えて欲しいが、もし貴方が経営トップであるとすれば、こんなことを人に任せる事ができるだろうか。
定期的にチェックをするとは言え、基本はこれら重要な仕事を人任せにするのである。
言い換えれば、いつ会社の屋台骨をぶっ飛ばされるか、メチャメチャにされるのかもわからない。
そしてほとんどの場合、これら仕事を支えきれずにメチャメチャにする社員が多い。
さらに、細かなチェックをし、いちいち相談に乗っていれば、それだけ経営トップが将来投資に掛けられる時間が減っていくのだから、まさにジレンマだ。
しかし経営トップは任せる。
ここで任せずに立ち止まるようであれば、そもそも5人規模の会社で作業者を止めようとはしていない。
もしこのような経営トップの心の動きを理解できれば、きっとCOOであれ、CFOであれ、どんなポストでも仕事がこなせるようになるはずだ。
そしてそのポストは、誤解を恐れずに言うと、他人のリスクで大きなチャレンジが出来る旨味しか無いポジションでもある。
なぜか。
COOやCFOと言っても、しょせん経営トップではない。
ほとんどの会社では、このポストにあるものに銀行の債務保証を求めたり、自宅を担保に差し入れるようなことを求める経営者などいないものだ。
つまりNo2やNo3は、会社を代表して偉そうなことを出来るにも関わらず、その失敗のリスクを取る必要がなく、成功した場合には、取引先やステークホルダーから褒めてもらえるというお得な役回りと言えるだろう。
さらにこれらポストは、経営トップと違い、自分のしている仕事の成果が従業員と同じレベルで、毎月のように目に見えて数字に現れてくるという楽しさがある。
特にCFOなどはこの典型だ。
経営トップが「放置した」問題を自分の裁量で解決し、さらに数字の成果として直ちに楽しむことが出来るのである。
何らかのコスト削減に手を打った場合、その成果は早ければ翌日にも現れ、そして月次決算書を見て自分の能力の高さに満足しニヤニヤできる。
さらに勘違いしたCFOは、自分こそがこの会社を支えているのであり、経営トップは飾りのようなものだと考え始めるものが出始めても無理がないほどの、役割分担の違いだ。
本気でこのような勘違いをすれば、おそらく数ヶ月で職を失うことになると思うが、いずれにせよそれほどまでに、目先の成果を楽しみ、さらに人のリスクで成長できるポジションである。
しかしながら逆に言うと、これらポストを任されたものは、無能であれば直ちに更迭される。
経営トップに近いところに上がるということは、それだけのクオリティで仕事を期待されるということだ。
本当に、経営トップが付けた道筋を形にし、ルーティンワークを作り上げ、定量的に把握するような仕組みを備えるようなことが出来るのか。
結論から言えば、できる
ただしそれには、数多くの幸運と、経営トップの忍耐と、周囲の協力が必要になる。
さらに絶対に必要なものがある。
それは、何があっても諦めないという強い意志だ。
問題点を見つけたら、それを確実に解決させるまでしがみついて離さないという執念だ。
あとは、経営トップの想いを理解し、その経営トップと共にこの会社を大きくしたいと言う純粋な思い。
意外なようだが、それだけを持ち合わせていれば、誰でもCOOやCFOになれるし、IPOを目指す企業の幹部社員になれるだろう。
偉そうに言ったところで、会社役員とはこの程度のものである。
経営トップと役員の役割分担の違いとは、このようなものだ。
機能を分化しても良い
さて、経営トップには熱い気持ちを持った役員の存在が必要なことはお分かりいただけたと思うが、気持ちだけあっても実際に機能する役員を得られることは稀だ。
CFOを求める経営者は多いが、CFOとして機能できる役員など世の中には数えるほどしかいない。
20万円払って法務局に登記すれば誰でもなれる経営トップと違い、CFOとしてその能力を期待できるものなど一般採用で来るはずもなく、一朝一夕で社内から人材を育てることもままならないからだ。
COOも同様であり、会社の業務執行責任者など、普通に考えれば社長を採用するようなものなのである。
満足に会社を経営できる社長が本当にいるのであれば、あてにできる利益の中から最大限の歓待を持って受入れたいところだが、お金を積んだからと言って見つかるようなものではない。
ではどうすれば良いのか。
私はCFOをメインにした経験者なので、CFO寄りの立場からという意見になるが、おそらくCOOでも大差はないだろう。
それは、機能を分化し役割を小さく与えることだ。
一般にCFOがこなさなければならない仕事にはどのようなものがあるだろう。
【A】
・デット(銀行借り入れ)&エクイティ(直接調達)の管理と調達
・銀行や株主と言ったステークホルダー対応
【B】
・経営計画の立案と行動計画への落とし込み
・進捗状況のチェックと乖離要因の分析
【C】
・定量的な経営のチェック及び異常値の発見と原因分析
・異常値発生原因の改善と再発防止策の立案、実施状況の確認
これらは、成長途上にある会社で、何でも屋でなければならないCFOが最低限こなせなければならない職責だろう。
もちろん他にもやらなければいけないことはもっとあるが、ここでは役割を列挙することが目的ではないので割愛する。
これらの全てをこなせることは、CFOとしては当たり前なのだが、しかしできない人間からすればどれ一つもできない。
一人の人間が首尾一貫して出来るからこそ意味があり、また効率も良いわけだが、できないのであればこの際、機能に分けた仕事の任せ方をするべきだと言う考え方だ。
上記で分けたA~Cは、少なくともこの3つの機能に分けてそれぞれ別の人間に任せ、あるいはその一部を経営トップが当面の間預かりながら運営することを考えても良い。
少なくともCに関しては、ちょっと訓練をすれば経理担当者にも十分できる仕事であろう。
数字の異常値を発見するのは難しいことではなく、センスが必要なことでもなく、数字を流れで理解するということに尽きるからだ。
月次決算というものは、単月で見て「利益が出た」といって喜ぶものではなく、「赤字になった」と言って気分を悪くするようなものではない。
もしあなたが経営トップであれば、万が一(無いとは思うが)このような数字の見方をしているとすれば、それはいろいろな意味で間違っている。経理担当者やCFOであれば、その存在は会社にとって害悪なので直ちに職種替えを検討するべきだ。
なぜか。
数字というのは過去の結果であり、なるべくしてなったものであって、一喜一憂する材料などではないからだ。
では月次決算とは何のために行うものなのか。
それは、経営者がその施策として打ったことが正解であったのか間違いであったのか、或いは正しい方向に進んでいるのかそうでないのかを見定めるための道具であり、ただのスピードメーターである。
アクセルを踏み込んだところでスピードが上がるのは誰でもわかりきっていることであり、そこで喜んで良いのはせいぜい課長クラスまでだ。
ブレーキを踏めばスピードが落ちることはわかりきっているのであって、その踏み込み具合が想定どおりであったのか。
それを確かめるのが月次決算であり、所詮それは、現在進行系の課題に対する答え合わせでしか無い。
世の中のCFOという看板を背負っている人間ですら、この前提すら理解していない役員がいて驚くことがあるが、まずはこの意識から変えるべきであろう。
そしてこの際、数字を単月で見ても答えは出てこない。
前年同月比、前月比と言った数字の比較はもちろん、材料比率、労務比率、経費率と言った原価構成の各指標、さらに販売管理費との兼ね合いといった主要構成比の確認。
そして従業一人あたりのパフォーマンスや組織としての1時間あたりの生産性あたりにも置き換えてみて欲しい。
ここまでやると、初めて異常値が浮き彫りになって、そして幾つかのイレギュラーな数字が浮かび上がることにより、現場に入ったことすら無いCFOでも、何が原因でその数字に落ちたのか、或いは計画通りに落ちなかったのか、という真実が見えてくる。
また、現場の人間というのはここまで客観性を用意しなければ絶対に前向きな協力などしてくれない。
特にものづくり企業で言えることだが、現場で働く人間は最善を尽くし、出来る限りの事をしてくれているからだ。
その結果、それが利益に結びつくか、あるいは無駄がないかという発想はなく、そのプライオリティは納期までに所与の数量を完成させ、そして守るべきクオリティを守ることだけである。
つまり、求められた仕事をした結果、利益が出るかどうかについては無関心であり、そのことは経営マターであると正しく理解していると言っていいだろう。
そこに突然、
「人件費が多すぎるんですが、なにかおかしくないか?」
と聞いたところで、
「ちゃんとしてますが何か?」
という答えが返ってくるのは当たり前である。
しかし一方で、
「前年同月比でも前月比でも労務比率が高くなっていて、特に毎週土曜日の残業代の支給額が突出して多くなっているんです。何か心当たりはありませんか?」
と聞けば、現場責任者は確実に、その心当たりを教えてくれるだろう。
そうなれば、それが一過性の避けられないものであるのか、人事シフト上の問題であって社員とアルバイトの構成比を組み替える必要がある事案であるのか、あるいは一部の社員による不正行為であるのか、といった真実が見えてくる。
このようにして初めて、CFOが果すべき上述した「C」の仕事は経営課題として問題化することができ、問題化することができた課題はもはや解決したも同然ということになるわけだ。
他の多くのことをしながらこのことにも注力するのが難しいのであれば、繰り返しになるが、まずはこの機能に特化した人間を任命することだ。
経理の人間が、忙しいという理由で新しい仕事を引き受けないのであれば、このチャンスを見過ごして忙しいゴッコをしている人間などに期待せず、もっとチャンスに貪欲な社員を「特命社員」として任命しても良い。
その特命は、イレギュラーな数字をできるだけ発見すること。
数字の切り口はある程度、基本的な考え方は与えればいいが、本人がやる気になっているのであれば好きにやらせてみても良いかもしれない。
このような作業は、いわばパズルのようなものであり、数字マニアであれば遊び感覚でやれる仕事だ。
それはやる気さえれば誰でも出来る仕事であり、恐らく20万円ほどの給与でも
「割に合わない」
と言い出す社員などいない仕事であるのではないだろうか。
程度の問題はあるが、他の「A」や「B」も同様である。
確かに、金融の専門知識や場数が要求され、コミュニケーション能力も必要になるかもしれないが、出来る人間であっても、最初は皆できなかった駆け出し時代があるものだ。
期待をして任せられる人間であれば、まずは出来ることから機能分化をして任せてみる。
これらの全てができると自称するCFOを採用し、月額100万円の給与を支払うより、3つほどに機能分化した役割を何人かの社員に担わせるほうが確実であり、リスクが低いような気がして来ないだろうか。
ちなみに私は、CFOを経験した上で会社を起こした経営者だ。
今のところ、会社を大きくするような意志もなくCOOやCFOを採用する考えもないが、もしCFOを採用するようなことを本気で考えなければならない局面が来れば、私なら機能分化して社員に役割を分散する。
或いは分散した役割で給与を分散させ、採用する。
なぜか。
自分と同じクオリティでCFOを出来る人間などそう簡単に得られることなど不可能なことがわかりきっているからだ。
これは何も自分の能力が高いと言っているわけではない。
学ぶことが多いボスに恵まれ、度量の大きな経営者の下で様々な経験をさせてもらい、また数多くの幸運があったからこそそのような能力が獲得できたことをよく知っているからだ。
天才肌でCFOとして活躍する者もいるかもしれないが、そのような人は中小零細には流れてこない。
中小零細で採用できる人材で、私と同じくらい幸運に恵まれたCFOなどまずいないであろう。
だから私なら、単独のCFOなど採用せずに機能を分化し、リスクを分散させながら人を育てる道を選ぶ。
CEOの壁とCFOの壁
さて、こんなことを述べながら実は私は、改めて自分がCEOの素養に恵まれた人間ではないことを、暗澹たる思いで筆を進めていると言えば意外に思われるだろうか。
ここまでお話しながら、CFOに向く人間というものは、本当にCEOには勝てず、そして人も会社も大きく出来る器ではないことを強く感じている。
その違いとは何か。
あるいは経営トップの方であれば既に感じている違和感かもしれないが、私の発想は常にリスクへの手当が最初に立つ考え方だ。
考えうるリスクを予め想定し、そのリスクに先立って手当をしておこうという、いかにもCFO的な発想で仕事を進めることを考え、そして進めてきたのである。
CFOの立場であればもちろん問題ない。
むしろ「例外なくバカ」である経営トップを支える2番手としては理想的であり、その姿勢は堅守するべきだ。
しかし今の私は経営トップであり、だからこそ私は会社を大きくする意志がなく、人を雇う考えが余りないのだろう。
つまり、自分とその家族には貢献できても、一人でも多くの社員の生活を支え、より大きな社会的インフラとして世の中の役に立とうという志が欠けているといえるかもしれない。
余談だが、私が知っている経営者の中で、その黎明期から知っている人で一番大きくなった人物といえば、ブルーベリーのサプリメントで有名な人かもしれない。
私が彼を知ったのはまだ年商1億円程度で、小汚い雑居ビルの小さな部屋で仕事をしていた頃だ。
今ではその100倍以上の会社になり、誰もが知る企業になったが、今の仕事に辿り着く前、その若い頃の、起業しては仕事を潰していた時代はなかなか凄いものがある。
リスクに鈍感であり、まずはなんでもやってみようという貪欲な姿勢はとても真似ができない経営者であった。
逆に言うと、私のようにリスクに臆病なCFO気質な人間は、絶対にこのような突き抜け方はできない。
言ってみれば、他人のリスクの上でこそ100%の力を発揮できる存在であり、自分のリスクになるとその考え方の10%も実行に移せないヘタレだ。
だからこそ、このようなCFO気質の人間は、志の高い「バカなCEO」と巡り合うとその能力が存分に引き出される。
そして「バカなCEO」は、このようにリスクを拾い自分の跡を追いかけ形にする役員がいるからこそ、安心してバカを出来るようになるのであろう。
このようにして、やんちゃ坊主のCEOと臆病者のCFOは組み合わせの妙を発揮し、会社は加速度的に第2の成長を始める。
しかしながら、このようなことを理解した上でも、やはりバカCEOは時に殺意を感じる程にメチャメチャである。
一生懸命作り上げた組織とそのルールを、まるでガキ大将が積み木を蹴っ飛ばすようにぶち壊し、そして壊すだけのような真似をすることすらある。
いや、そのように見えることすらあるというべきだろう。
COOやCFOのストレスはマックスであり、たまに本気で事故死を願ったり、事故死に見せかけて殺す方法を検索することもあるかもしれないが、それはCOOやCFOとして当然であり、貴方だけではないので、どうか安心して欲しい。
おそらく世の中のやんちゃ坊主を支えている役員は、多かれ少なかれこんなものだ。
ではなぜCOOやCFOはそんな立場で仕事をし続けるモティベーションを維持できるのか。
それはひとえに、そのやんちゃ坊主を愛し、その会社を大きくしたいという情熱と思いを共有できているからだ。
逆に言うと、この役員としての最低限の思いがないのであれば、ベンチャー企業の役員など絶対に務まらない。
ストレスに苦しみ、本当に余計なことをしてしまいかねないので直ちに身の処し方を考えるべきだ。
着任当初はそんな情熱があったにも関わらず、次第にその情熱を失い、今では何の熱意も感じないという役員がいれば、それも同じである。
逆に、CEOに求められる姿勢だ。
COOやCFOの立場では、恐らく多かれ少なかれ、
経営トップと会社を愛し、大きくしたいという情熱を万が一にも失うようなことがあれば、それは会社を去る時だと覚悟を決めて、人の夢を支えるスタッフになる。
という覚悟で仕事に臨んでいる。それが役員というものだ。
経営者には、常に人生を掛ける価値がある人でいて貰いたい。
人生の大事な時間を共に過ごす盟友であると、胸を張って人に話せる価値がある人であり続けて欲しい。
イギリスからアメリカに渡り、一代で巨万の富を築いた「鉄鋼王」、アンドリュー・カーネギーは、自分が死んだらその墓石に以下の言葉を刻むように指示し、そして実際に刻まれている言葉がある。
それは、
「己より優れし人物を身辺に集める術を知る者、ここに眠る」
だ。
0から付加価値を生み出し、新しい事業を生み出す能力は並大抵ではない。
私も1つとはいえ、その仕事に成功し、最低限の飯は食えているが、その過程はCFOの苦労など比べ物にならないほどに困難の連続であった。
さらにそれすらも、最後は幸運で乗り越えて今があると言っても良い過程であったと思っている。
ちなみに私は仕事場で有線を流しているが、創業当時有線から繰り返し流れていたももクロのヒット曲がテレビなどで流れると、今も少し、当時を思い出しソワソワすることがある。
それはさておき、経営トップの姿勢だ。
アンドリュー・カーネギーが墓石に刻ませた文章は、恐らく嘘偽りのないものであり、それほどまでに優秀な人間に恵まれたので、鉄鋼王とも呼ばれるほどに大きな人物になれたのは間違いないだろう。
この素養を持つことが出来るかどうか。
COOやCFOの分業というテクニカルなことは確かに有効かもしれないが、本質的には、経営トップが大きな人物になれるかどうかは、器の大きなCFO、あるいはCOOを得ることが出来るかどうかに尽きるだろう。
そしてその際、経営トップを支えるCOOやCFOは、CEOの器の大きさに比例するかのような人物が集まってくる。
自らの器量に合わない役員は、それが大きすぎても小さすぎても、時間の問題で去っていくことになるはずだ。
そういった意味では、小手先のテクニカルな手段に走るべきなのではないかもしれないが、そんなことを言ったところで聞く耳を持つやんちゃ坊主はいないだろう。
トライ&エラーで正解を見つけるしか無いのもまた経営の真理であり、多くの経営者が覚悟している経営上の課題だからだ。
そして、CEOとCOO、あるいはCEOとCFOとは、いわば戦略担当と戦術担当のようなものである。
小さな企業では、戦術担当と戦闘担当と言ったほうがわかりやすいかもしれない。
CEOは戦い方を指示し、COOは戦いを指揮する。
戦い方や戦うべきフィールドが間違っていれば、どれだけ必死に戦っても、兵士は討ち死にするだけだ。
どれだけ戦い方を必死に指導し、社員たちが必死に戦ってくれても、戦うべき時、戦うべき場所が間違っていれば、社員全員が討ち死にするという原則は、実は戦国の時代から何も変わっていない構図なのかもしれない。
ここに、CEOとそれ以外の役員の間の壁がある。
その判断が間違えれば、自分に掛けて着いてきてくれた人間の人生も何もかもを一瞬で壊すこともあり得るという判断の重さだ。
COOやCFOは人の人生を預かっていない。
しかしCEOは預かっている。
だからこそ、CEO以外の役員はその重みを知っているので、CEOがその職責に忠実である限りにおいてトップを必死に支える。
にも関わらず経営トップは、その職責を十分に知り尽くした上で、今日もCOOやCFOにルーティンワークを任せて、「外で遊び回る」。
残されたCOOとCFOは必死になって仕事を回す。
大卒の若者であれば、誰でも大企業に入りたがる時代だが、こんなベンチャーシーンを愛する人間が一人でも多く育てば、日本はもっと楽しく、おもしろいビジネスシーンが生まれる国になるのかもしれない。