私がCFOを務めていたある会社において、事業の不振と資金繰りの極度の悪化により、会社の稼ぎ頭である事業部門を分離して売却。
その資金で会社を立て直そうと画策するが、最後の最後で経営トップとの意思疎通が破綻し、非常に不本意な売却劇となってしまったところまでをご説明した。完結編では、経営トップの非常に不本意な経営判断を受け私は退任を決め、会社を去ったところで話を終えさせて頂いた。しかし実はこの後、厳密に言うと私は半年余りの間、会社に残った。
一旦は、直ちに辞任届を出し会社を去ることを決めたが、経営トップからの強い慰留を受け翻意したためだ。
実際に、株主との協議で事業売却が成立した後には、株式の買い戻しを約束していたこともあったので、その仕事にめどを付けずに無責任に会社を去ることはできないという思いももちろんあった。
その為、株主の整理と併せて心をクールダウンし、ある程度現状を受け入れ、冷静に分析する気持ちのゆとりも出てきたのであろう。
私はまた、この期に及んでもまだ何かできることは無いかと、我ながらしつこいにも程がある、諦めの悪さが心のどこかに芽生え始めていた。この時の状況を改めて整理してみたい。年商50億円の会社から40億円の事業を切り出し子会社化の上、A社に4億円で売却。
さらに2億円を、転換条項付き社債で親会社である本体の会社にA社から直接貸付。
転換条項については様々な条件がついていたが、大きく問題になるのが転換価額は時価であることだ。
一定期間が経過後、A社はその時の時価で社債を普通株に転換できるというもので、いわば本体である親会社の業績が悪ければ悪いほど、安く買い叩けることになる。資金繰りの状況だ。
売却と社債による調達で6億円ほどを得たものの、一部株主からの株式の買い戻しで2億円ほどを使い、残りは4億円ほど。
さらに、経営トップが経営者仲間などから借り入れた1億円余りについては優先して返済したいということで、残りは3億円ほどになった。
毎月のキャッシュアウトを考えても、1年半程度は現状のままで運営できる資金の状況だ。
そして最終的に、経営トップがちゃぶ台返しをした「最大の理由」であった、A社から当社への「大量の商品発注」である。
A社は経営トップに対し、キャッシュの状況が改善するレベルで仕事を発注する、自分たちにはそれほどの需要があるので、自分たちをパートナーに選んで欲しいと口説き、そしてちゃぶ台返しをさせることに成功した。
しかし、転換条項付き社債の条件から考え、そんなことはありえない。
ちなみにこの時、先方の経営者は、
「転換条項付き社債にしたのは、いつでも返済して独立して下さいという当社の意志です。しかも仕事をたくさん発注しますから、その儲けで返済できることになります。断る理由がありますか?」
と口説いてきたそうだ。
そんな「良い人の善意」を信じることができない私の根性もかなり性悪だとは思うが、素直に信じてしまう経営トップのお人好しさも相当なものだ。
そしてもちろん、このような約束は全く果たされること無く、数回ほど数百万円規模の、ごく少額の発注があったのみでその後一切の仕事が出てくることはなかった。
こうなれば、1年半ほどの間に何とかして自力で経営再建する以外の方法はない。
しかしながら、残された本体にとって、最高のパートナーであり、アライアンスが決まっていたB社はすでにちゃぶ台返しに激怒し、本体との業務提携だけのつまみ食いなどあり得るはずもない。
1年半の時間があるのだから、いくらなんでも営業努力で自力再生できるのではないのか、とお考えの読者も多いと思う。
そう思われて当然なのだが、まずその業界の特徴として、顧客が非常に特定の業種に限られており、なおかつ一度当社と契約をしたら事実上、2度と解約ができないという極めて特殊なサービスの事情が新規の営業を難しくしていた。
なおこれは、慣習や契約書面上での話ではない。
当社と一度契約をしたら、物理的に不可逆的な変化が起きるため、事実上解約ができないという話である。
そのため、顧客側からしたら契約に極めて慎重にならざるをえない理由があり、なおかつ財務基盤に不安があることがすでに打ち消し難い風評として広まっていた当社に命運を託せるわけがない、という評価になってしまっていたということだ。
そのため、残された本体にとって必要な業務提携のパートナーは、
・知名度がある有名企業であり、財務基盤に全くの不安がない(と思われている)こと
・製造のノウハウは当社に積み上がっているので、営業の窓口になり、いわば「保証人」になってくれること
・全国規模で需要を持っており、当社の製造ノウハウを横展開できる組織力があること
などである。
そうなれば、当社は身の丈に応じ、製品のサプライヤーに徹することで、裏方から業界にイノベーションを起こせる寵児になることもできるだろう。
裏を返せば、自社だけの営業力ではもはや与信が皆無であり、「モノはいいけど販売力が皆無」という状況だけが続き、1年半の運転資金が5年であろうと、キャッシュの枯渇は時間の問題ということだ。
そして、M&Aでちゃぶ台返しをして破談になったB社は、この喉から手が出るほど欲しい条件全てを満たしていた。
東証一部上場企業で業界の大手であり、営業の窓口を引き受けてもらうには最高の条件だ。
さらに、既存の生産体制から、当社が先を走っている新しい生産体制の導入を試みていたものの上手く行かず、先方も当社のノウハウを渇望してくれていた。
そのためM&Aが成約になれば、本体へも追加出資の上でまずは販売を担当し、当社の製造ノウハウと工場で製品を出荷。
その過程で当社の技術をB社に移転し、当社は生産指導と特許収入などの形で収益を確保すること。
全国への横展開でも、当社は生産指導と特許収入がメイン。
B社は新工場設立などの資金リスクも引き受け、さらに営業も担当していくこと。
概ね、このような本体の再生に向けた青写真が合意されていた。
それぞれの役割に徹した最高のパートナーシップであり、これ以上はないWin-Winであった業務提携だったはずだ。
しかし、それも経営トップの意志として破談になってしまったのだから、今更そこにこだわっても仕方がない。
1年半の猶予があろうともなかなか数字の改善が厳しい事情は理解してもらえたと思う。
しかし、根本的には新規営業を獲得しなければどうにもならず、それを自力で成し遂げるにはどうすればいいのか。
A社から十分な売上があるなどという空手形は絶対にありえず、新規の営業は困難で、なおかつA社からの借り入れ(社債)も償還していきたい。
ムチャにも程がある状況だが、何かできることはないのか。
一度は退任を決めたものの、迷いながら会社に残った私が置かれている立場は、このようなものであった。
「無条件降伏」はしない あらゆる手を尽くす
ちなみにこの時、一度は辞任届を出した私を、なぜ経営トップは驚くほど強い意志で慰留したのか。
この微妙な人間関係についても触れてみたい。言うまでもなく、転換条項付社債のような「毒まんじゅう」を呑んだ以上、会社が相手に渡ることは時間の問題だ。
A社からすれば私は完全に不要な存在であり、それどころかM&Aを通して、露骨にB社との提携に否定的な立場で臨んできた経緯もある。
有害極まりないCFO兼経営企画室長であって、M&A成立後には、さっさとクビにしたい意向を隠そうともしなかった。
そのため先方からは、経営トップに対し私を早く解任するように言ってきていたそうだが、そんなことはわざわざ言われるまでもなくM&Aの常識から考えて当たり前のことだ。
「本当は辞めさすように何度も言われてるんやけど、俺は本当にいて欲しいと思っている」
などという妙な言い方が少し気に障ったが、その理由を問うと、
「特殊能力が得難いから」
という良くわからない答えであった。
要約すると、エクイティに関する交渉事では、自分ではどうにもならず、私に任さざるをえない。
そのため、従業員を守るために、私の力が必要である。
ギリギリの交渉事での強さは、本当に得難い人材だ。
こういったところであっただろうか。
更にいうと、この思いの裏にある本音では、毎月1回、経営状況の報告をするようにA社から求められていた役目を私にしてもらいたいという事もあった。
自分が行けば先方の言い分をそのまま受け入れざるを得ないので、私が代わりに行くことで要求事を交渉事に変え、会社を守ってくれるのではないか。
そういう期待値が含まれての慰留であったのだが、実際にその役目は私がすることになった。
言うまでもなく、この意識は経営トップとして情けない。
このような交渉事は、エクイティの知識があるかどうかは極論無関係だ。
なおかつ、その上で先方から売上だけはたっぷりと流してもらえると思っているのであれば、経営トップにいても良い人物なのか。
私は段々、自分の意識に大きな変化が生まれるのを感じていたが、それは後述する。
経営トップとしては、感情的には敵対的M&Aに近いものがあるが、売上だけは口頭とはいえ約束してくれたので、流してくれるだろうと本気で信じていた。
だから売上をもらい、経営を立て直すまで、矢面には私を立たせるのが合理的だ、ということだったのだろう。
その間の難しい交渉事でも、義務と権利を整理して自社と経営者の立場を守ってくれるに違いない。
私はそのような役割を期待されていた。
私はこのような期待値はともかくとして、どうすれば自社の営業に頼らずに会社を立て直せるかを考え抜いていた。
変な話だが、自社の営業力をあてにして業績が回復することをあてにできないのである。
その理由は先述のとおりだが、いずれにせよ仕組みとして、営業力を外に求めざるを得ない
このような状況にあって、本稿をお読み頂いている方の中に経営企画担当の役員がいればどのような手段に出るだろうか。
自社の営業力は、与信の関係もあり機能することをあてにするのは現実的ではない。
運転資金は1年半ほどあり、その間にB社と合意していたアライアンスのような話をまとめない限り根本的な立て直しは厳しい。
結局のところ、私が行き着いた結論は極めて単純なものだった。
「B社以外の同業他社に、本体とのアライアンスを申し入れる」
時間的余裕、人員的な余裕、現実的に有効な施策。
これらを考えて、当時の私に出せた結論はもうこれしか無かった。
しかし、私は本当に諦めが悪い。
ノーサードの笛がなる前にゲームを諦めるようなカッコ悪い真似をするくらいなら、大概のカッコ悪い事ができる。
途中で逃げたり諦めることが、経営者として一番カッコ悪いことだという価値観があるからだ。
そこで私は、M&Aを仲介してくれた会社には今更お願いできないので、金融機関の知り合いを通じ、まずはB社とのアポイントを設定して貰うことを考えた。
M&Aが破談になった後、東京に一人謝罪に行き、10分ほどで追い出された時に最後にお会いしてもらったあの課長さんだ。
まずはあの時のことを、改めて謝罪する時間を取って貰えないか。
私は経営トップにも自分が何をしようとしているのかを十分に説明し、「本体は本体で、A社とは別の同業他社と業務提携して何が悪いのか」と言うロジックで、動き出そうとしていた。
経営トップも、可能であればぜひ進めて欲しいとこの方針に熱意を見せた。
一方でもちろん、このやり方は紳士的とはいえない。
世間的には、すでに当社はA社の傘下にあると見做されていたので、言ってみれば「背信行為」と理解されるのが自然だ。
しかし、経営トップに対し口頭で約束した「十分な売上」など一向に履行しようとしないA社だ。
紳士的に物事を進める理由がない以上、こちらも契約として成立している内容にのみ基づいた義務と権利を分析して、その範囲でしか行動するつもりはないと言うことである。
そして幸い、B社の課長さんとは東京の本社で再会できたが、こちらは哀れのみ目を向けられただけで、ひとこと、
「もう終わった話ですから」
と突き放された。
予想していたことであり、必然の結果だが、思いつくこと、可能性のあることは潰していかないと気が済まない。
そういった意味で意味のある訪問であったが、さらに私は同様に取引先の金融機関を通じて同業他社にもアポイントを申し入れ、本体事業の業務提携話が成立する可能性はないか。
その可能性を追求し続けたが、結果から言うと全て不調に終わった。
その理由は大きくは皆同じであった。
「おたく、A社の傘下に入ったんでしょ。そんな良いとこ取りはできないよ。」
こちらも当然の結論ばかりであったが、もうこうなるとこの方向に突破口はないということが確定的だ。
自社の営業力をあてに出来ず、A社は当社に営業力を提供する意志がない。
そしてA社以外の会社に営業力を求めようと動いても、当社はすでにA社の傘下と見做されて話が進まない。
この施策に活路を見出そうとしていた私は、根本的な戦略の見直しに迫られていたが、そんなある日、私の動きにイラついたのであろう。
A社から経営トップにこんな申し入れがあった。
「毎月の定例経営報告に、あいつ(私)をよこすな」
そして、必ず経営トップが一人で来るよう厳しく要求されたようであり、以降私はA社とのあらゆる交渉ごとから締め出された。
ここで経営トップが、
「何を言っているんですか、あいつは私の片腕です。あいつの言うことは100%私の意志であり、今のやり方を変えるつもりはありません」
くらい言ってくれればよかったのだが、残念ながら経営トップはこの申し入れを受け入れ、私は交渉の矢面にも立つことができなくなった。
そして明らかに、経営トップに対しA社から、私をクビにするよう解任圧力が高まっていくことになる。
自らがトップに立つことを決める
元々は、すでに会社を去ることを決め退任届を出した身である。
本来なら、ことここに及んではさっさと会社を去るのが賢いやり方だ。
またこの時、いくつかの会社からCFOとしての勧誘を受けており、条件も悪くなく、直ちにそうするのが「賢い」ことはわかりきっていた。
しかし、自分から去るのならともかく、(私にとっては)筋の悪い連中に追い出されるのはどうにも気分が悪かった。
なおかつ、A社以外との提携話も含め経営トップと最後の悪あがきをしようと約束している状況だ。
そんな状況で、なんとかして最終的にA社に会社が持っていかれることを防止するために奔走している中、経営トップがどんどん腰砕けになっていく「負け戦」の真っ最中である。
ここで自分だけが戦線から逃げると、近い将来に必ず後悔すると、ただそれだけで意地になっていた。
しかしこの時、毎月の経営報告に1人で出向いていた経営トップの目からどんどん、覇気が失われていくことを感じていた。
そして自身の給与の削減に営業担当幹部への辞職勧告など、経営トップが自ら決めたとは思えない施策を次々に進めて行き、会社は別物のように変わりつつあった。
他社との提携話も難しい。
経営トップが、自分で自分の会社を守る意志もすでに失いつつある。
しかしそれでも、負けを認めたくない。
正直、勝敗はすでに付いていることは明らかだったが、そんな状況の中、以前別のコラムでもお話した経営トップに対する従業員の「ボイコット」がまた起きることになる。
以前の騒動は、給与の一律削減を機に経営トップに対する不満が一気にハレーションを起こしたものだった。
その時の状況は危機的であり、経営トップの奥さんまでが私に対し、
「一時的に社長に就任して、この危機を救って欲しい」
と申し入れてきたほどであった。
そして、今回もさらに深刻だ。
当事者能力を失ってしまった経営トップが、言われるままに信念も見通しもなく、人員削減を行い会社がどこに行こうとしているのかを語ることもできない。
わざわざ本体を残した意味が全く無くなりつつある中で、経営トップは夜な夜な一人で歓楽街に行く回数が増え、お昼近くになってまだ赤い顔をしながら、会社に出てくることが多くなってきた。
心身ともにケアが必要な状況であり、末期だ。
一方で、ものづくりに携わる人間というのは、意外にと言っては失礼かもしれないが、恐らく多くの人が思っている以上に、自らの仕事に誇りを持ち、職人としての責任感が強い人間が多い。
そして再び、経営トップを追放して貴方(私)が社長に就いて下さい、という声を私に直接伝える者が出始め、そしてその声は一般従業員だけでなく、幹部社員の意志にもなりつつあった。
とは言え今回は、経営トップの奥さんからそのような要請はなく、経営トップが自ら退くはずもなく、そんな声を寄せられたところで実際にそんなことを実現できる環境でないことは明らかだ。
本体の持株比率は、相変わらず経営トップがほとんどを握っている。
時間の問題で、A社の傘下になることを考えても、従業員や幹部社員の思いを実現させることは極めて難しい。
とは言え、無駄な時間が流れ全員が疲弊し、誰も得をしない無意味な時間が続くことを見過ごすこともしたくない。
そして、経営トップがまずは一線から退いてくれれば、あるいは会長に棚上げになることを受け入れてくれれば、仕切り直しも考えられる。
こう考えた私は、私の中で、自分がトップになるという考えがどんどん強い意志になりつつあることを感じていた。
そして覚悟を決めた。
私は社長と会議室で向き合い、単刀直入にこんな言葉で切り出した。
「ストレスに耐えかねているのであれば、毎日酒を飲むのも当たり前です。」
「昼頃に会社に来て、ただ席に座っているだけでもいい。」
「私自身、お役に立つことができなかったが、貴方がどれだけ辛かったのかだけは理解しています。」
そして、会長になって下さいと。
もはや、この期に及んではできることは限られていますが、一旦は私に任せてもらえませんか、会社と社長を守るために、出来得る限りの悪あがきをします。
要旨、このようなことを申し入れた。
黙って聞いていた経営トップは、意外にも、すでに自分には経営の意志がないことを自覚していることを吐露した上で、こう力なく呟いた。
「正直、なんでこんなことになってしまったんやろうなあって思ってる・・・」
自信に溢れ、理不尽大王ですらあった経営トップの姿を見慣れてはいたが、これほどまでに無意味で空虚な言葉を呟く経営トップを見たのはさすがに初めてだった。
そしてさらに、呟きは続く。
「俺は、どこで間違えたんやろう」
「会社を大きくするために、一番良い決断を繰り返してきたはずやで」
「本当になんでこんなことにならなあかんねん・・・」
前日の酒の影響か、その目は充血し屈辱と無念で溢れていた。
それもそうだろう、一代で50億円企業を築いた経営者が、「たかだがCFO」に、こんな屈辱的な申し入れをされるのである。
正直、暴れだすのではないかと恐れていた程だったが、もはやこの時、経営トップは暴れるほどの気力も失っていたということだ。
自分の目の前には今、城を失うことになり、何もかもを失うことになるであろう疲れきった経営者が座っている。
どんな言葉をかけても無意味であり、ただ黙って聞いていた。
そもそも、負け戦の責任からは私も逃れられず、慰めるような舐めたマネをするべきではないと、空気が収まるのを待ち続けた。
そして、どこまでお役に立てるかはわかりませんが、私に一旦会社を預けて下さい。
時間の問題で会社を失うよりは、やれるだけのことをやって会社を枕にして一緒にクビになりましょうよ、と伝えて、会長に退いてもらうことを誠心誠意、嘆願した。
ひとしきり無言で聞いていた経営トップはただ頷いていたが、最後に力ない声を振り絞るように、だが少しだけ張りのある声で、こう答えた。
「言っていることは理解できたわ。俺も退いたほうがいいのかもしれん。ただ、後任の社長やけど、俺の息子に就いてもらって、君はその補佐役になってくれへんか?」
「ふへぇ?」
この空気にしてとても不謹慎なことであったが、私はこの言葉を聞いて、思わず変に歪んだ顔と共に、こんな奇声が出てしまった。
(・・・何を言ってるんだこのバカ)
言葉を選ばずに言うと、この時の私の偽らざる感情だ。
確かに、経営トップの息子は2年ほど前に大学を卒業して当社に入社し、いきなり「工場長」の肩書を持っていた。
とは言え、社内では経営トップと同一視されている上にいきなりの要職就任であった役職だ。
求心力が皆無でありむしろ反感を集めていて、指導力はなく、全く無意味な人事である。
なおかつ、まもなく城を失うことが確実な状況の中で、合理的な判断力があれば、まだ20代前半の息子はこんなゴタゴタに巻き込まずに自由にしてやり、会社を辞めさせてやるべきだ。
にも関わらず、揉め事の中心に座らせて自分の後を継がせたいというのである。
気持ちは分からないではない。
それ程までに、自分が立ち上げ育てた会社は、絶対に自分のものだという良く言えばプライドがあるということだろう。
しかし、合理的な考え方には程遠い。
結局経営トップは、自分が会長に棚上げになることは受け入れられるが、その際の後任は息子以外には考えられないという立場を崩さなかった。
そんな人事に意味は無いばかりかますます事態を悪化させるので、私は一旦場を収め、またお話しましょうと、話を切り上げた。
引導を渡され会社を去る そしてその後に起こったこと
ここまで社長を立てればもう十分だ。
人によっては正気を疑うかもしれないが、私は最後の最後の手段として、かなり異常な行動に出る。
最後に私が取った手段、それはA社に対し、「自分に経営を任せて欲しい」という申し入れだった。
A社は、売却した子会社の経営者として、一人の取締役を送り込んでいた。
もともと当社の事業部門の一つだった会社だ。
売却後も当社の一室に本社を構え、そのまま通常の営業を続けていたのだが、そこに詰めていた実質的な経営者であるA社の取締役に、私は時間を取るように要請した。
なぜそこまでするのかと、正気を疑うどころかそもそも、話の創作を疑う人もいるだろう。
普通に考えたら、こんなことするようなCFOがいるとは思えないし、私もそこまでするべきでは無いと思う。
しかし、私にはA社がこのまま当社の全てを手に入れ、会社と社員を明け渡したくない大きな理由があった。
それは、A社が元々、当社とは何の関係もない分野で大きくなった会社であり、なおかつその業種は、金融関係の中でも極めて特殊な分野であったことだ。
仕事や業種について特定の見方をすることは良くないことであるとは十分理解するが、それでも私には、その業種のプロである会社に当社と従業員を任せることに大きな心理的抵抗があった。
とは言え、「従業員の幸せ」や「顧客満足」を本当に考えて営業してくれるとは思えない、という私の思い込みも、幼稚極まりない戯言にすぎない。
なぜなら、資金ショート寸前に陥り数次に渡る従業員の給与カットを行い、顧客に対して満足なサービスも提供できない状態を生み出した会社の経営者は誰であろう自分自身だからだ。
そう考えると、どう考えてもおとなしく退場するべきはA社ではなく自分であり経営トップであることは明らかだったが、A社の下で一変するであろう経営方針と社員・従業員に対する要求は明らかだ。
今更ながら、なぜB社との「結婚話」が破談になったのだろうかと、考えても仕方がないことを何度も思い出すほどに、私も追い詰められていった。
そんなこともあり、当社がA社の経営方針に染まっていくことをどうしても阻止したかったというのが、私の一連の行動の大きな動機の一つであったのだが、最後にはそのA社の取締役に面会を求めたということだ。
用件はストレートであり、当社を私に任せて欲しいということを申し入れると言うもの。
当社の「実質的オーナー」であるA社から来ている「実質的経営者」と向かい合い、私は単刀直入に切り出した。
「当社のオーナーシップはいずれ貴社が握ること、そのつもりであること、十分理解しています」
「貴社がその準備を進めていることも理解しており、その流れに逆らう意志はもはやありません」
「つきましては、今の流れにご協力しますので、当社の経営を社長ではなく、私に任せてもらえないでしょうか」
こんな言葉で申し入れただろうか。
これまで散々に抵抗し、A社とのM&Aを妨害したと言っても良い私にとっては降伏宣言であり、経営トップに見切りをつけた裏切りの宣言でもあった。
こんな申し入れは常軌を逸しており、まともではないことは理解しているが、社員・従業員からの期待を無視し自分だけ逃げるくらいなら、なりふり構わずにこうするべきだと思っていた。
ただでさえ、淀んだ雰囲気に士気が崩壊している会社の空気。
その中で、遅くまで飲み歩き昼過ぎに赤ら顔で出てくる経営トップ。
その経営トップに対し不信感を隠そうともせずに、多くの社員・従業員が何とかして欲しい、貴方にトップをやって欲しいと相談に来る状況。
こんな経営トップであれば、例えA社の雇われ社長であっても、私が社長に就いた方がより良い状況を作れる。
そう考えての、まともとは思えない行動だったが、A社の取締役はシンプルにひとこと、要旨以下のような回答をした。
「君は何の役に立てるの?」
もちろんこう来るだろう。
これがA社でなくとも、実質的に買収した会社の役員から、自分に経営を任せて欲しいなどと言われたら、まともに取り合わないか、自分が社長になって何ができるのかと問うのはまともな反応だ。
予期していた答えに私は、自分ができる経営再建策を具体的に説明した。
それは、一部進めていた消耗品の製造委託先の切り替えに外注していた業務の内製化といった足元の収益改善策から、自社製造ノウハウの横展開と業界のデファクトスタンダード化を目指す施策、それにそのモデルそのものの移転と収益化という考え方だ。
事業の横展開では、A社の営業力と与信力も期待していることも、そのまま伝えた。
A社取締役は最後まで話を聞くと、ここもまた要旨以下のようにひとこと、こういった。
「ドキュメントで出して。シンプルにね。」
このシンプルさは決して悪い反応の裏返しではなく、むしろ興味があるようであった。
そして、すでにドキュメントにまとめていた私はそれを渡すと、一度A社の社長にも改めて会わせて欲しいと申し入れて、面談を終えた。
そして後日、私は自社の経営トップから呼び出されてこう告げられた。
「4月末をめどに、退任して欲しい。今までご苦労さん。」
半年前、退任の意志表示をした私を必死になって慰留した経営トップだったが、もはやそんな素振りも見せず、突き放すように手短にそう告げた。
そして、
「これはA社からの要望でもあるから」
と、暗に私からA社への申し入れも把握していることを付け加えた。
「そうですか、今まで本当にありがとうございました。」
「当社はA社のものになるのは確実です。本当に残念です。」
「2ヶ月近くも猶予は要りません。残務整理は多寡が知れていますから今月末付の退任届を出します。」
ざっとこんなことを述べただろうか。
そして、取引先や社員・従業員に挨拶と感謝を告げて、早々に会社を去った。
私の送別会には、経営トップを除く幹部社員全員と、本当にたくさんの従業員が集まってくれて、申し訳ない思いで一杯ではあったが、やりきった満足感と皆から貰った季節外れの花束だけが僅かな慰めになった。
結局、それから数年後に社債は全て普通株に転換され、当社はA社の99.9%子会社になった。
そればかりか、A社は分割して売却した会社と本体を、再合併するようなことまでしてみせた。
結果として、親会社を含めてあの時のM&Aで全てを失ったことになった。
さらに、経営トップ個人はもっと悲惨だった。
元々当社には、会社(法人)から経営トップに対しかなりまとまった額の貸付金があった。
ただしこの貸付金は、何も経営トップが散財したり、個人的な使途で遊興費に使っていたものではない。
業界の慣習で、経営者個人名義で顧客側の法人あるいは個人に対し、営業保証金のような形で現金を差し入れていたものだ。
なぜそんな処理になっていたのか、という理由だが、このお金は、例え契約が終わっても回収を前提にできるような性質のものではなかったので、B/Sに記載すると相当不都合がある。
とはいえ経費で処理をすれば、IPOを前提にする会社の財務諸表としては、問題になることは確実な経費項目だった。
そのため経営トップは、会社から経営トップが借り入れ、それを個人として提供するという形を取っていたのだが、この形であれば、IPOが見えてきた段階で経営者個人の持ち株を譲渡・換金することは容易であり、その資金で借入金を消し込むつもりだったようだ。
しかしA社は、そんな事情を知っていても、一切容赦はしなかった。
経営トップに対しこれら会社からの借入金の返済を求め、借用書を巻いて、自宅を担保に差し入れさせることまでした。
経営トップの自宅は土地建物併せてかなりのものであったが、その不動産を処分しても足りない金額である。
そして雇われ社長になった経営トップは、同世代のサラリーマンに比べても割安の給与を設定された上に、その中から毎月一定額を会社からの借入金返済に充当させられることになった。
私自身、株主であったこともあり、会社を去ったあともしばらくはいろいろな情報を聞くこともあったが、余りにも気の毒で聞きたくない話を多く耳にするようになり、次第に元の部下からも距離を置くようになった。
そして、元経営トップが大病をして厳しい状況になっていることを聞いたことを最後に、連絡を絶った。
とても救いのない話で恐縮だが、これもまた、会社を失うことになった経営者の最後の形であろう。
経営者は、会社を失うようなことをしては絶対にならない。