最終的に責任を取れるものだけが決断を下すことができ、そしてその責任から逃げないことで会社は存在することができる。その一方で、どれだけ小さな会社でも、その組織でボードメンバーになり役員の肩書を背負うことになれば、やはり経営に対する大きな責任と権限が与えられることになる。
そしてその責任はもちろんリスクの裏返しであり、株主やステークホルダーのいる会社であれば、誠実に職務を執行しなかった結果最悪の場合、民事だけでなく刑事上の責任すら問われることがある。
近年は特に、融資や増資、それに予算執行に絡んでCOOやCFOの責任が問われ、メディアを賑わせていることが目立つようになったが、COOやCFOを務めている人には決して他人事ではないだろう。
しかし率直に言って、解釈の範囲内で財務諸表を少し良い方向に見えるように調整することなど、やったことがないというCFOなど存在しないのではないだろうか。
数字の解釈はある程度幅があり、どのように財務諸表に記載するのか、それはある意味でCFOのイニシアティブに依る所が大きい。
要は、数字の表にある現実の事象と程度問題、それにその行動の目的は何なのか、ということとバランスを取り、物事を正しく表していながら、なおかつ会社の目的に照らし、数字の解釈を調整することはありえるということだ。
それもまたCFOの仕事の一つであり、その結果として運悪くメディアを賑わしてしまうこともあるだろうが、それは結果責任というものなので、責任を背負った時点で諦めるしか無い。
ではその一方で、CEOと意見が対立した場合、極端に言うならあからさまな不正を指示され、あるいは明白な粉飾を指示された場合、CFOはどこまでCEOと対立すべきだろうか。
明白な粉飾であればまだ答えは簡単だろう。
そこまでしなければ維持できない会社なら潰してしまえと拒否し、受け入れられなければ極論法的整理を進言するか、辞任届を出すだけである。
しかしながら、「今回だけ」「この仕訳だけ」「次の決算で修正する」などのように、条件付きなどのグレーゾーンを指示をされたらどうだろうか。
そして、その目的が融資や増資を成功させるためであり、その融資や投資が通れば、或いは会社は大きく成長できることが確実に思える場面なら、なおさら迷いは深くなるかも知れない。
それに加えて、次の決算で修正を約束されたら、CFOとしてはCEOの経営方針に従う誘惑に確実に負けそうになるはずだ。
おそらくこのような経営判断の葛藤は、CFOだけではないだろう。
COOの立場で、或いは経理部長や総務部長の立場で、違法なサービス残業の実態を改めようとしない、もしくは税務申告で明らかに所得を隠すなどの行為を経営トップが繰り返し指示する。
こうなれば、ヘタをしたら自分もその責任を問われることになり、最悪の場合会社が傾くだけでなく刑事罰がついて前科者になる可能性もありえる。
経営トップと共に会社を支える覚悟を持ち続けながらも、限界ラインをどこに定めるのかは、やはりやんちゃ坊主のCEOを支える役員が常に直面する葛藤だ。
かつて私は、この葛藤の中でもにわかにはありえない程に、極めてハードな選択を繰り返し迫られることを経験した。
おそらく似たような経験をした人はそう多くはないだろうという、心身ともにタフな出来事だった。
職掌範囲はCFOの職務に加え総務、経理、庶務といったところだが、人事は各本部長が直轄する組織になっており、責任の外という状況である。
中堅程度の会社で、役員になった経緯は、古くからお世話になっていた方から斡旋され、着任するという経緯だった。
そんなポジションの中で、役員という職責に在るものは経営トップの経営方針をどこまで誠実に実行し、どこからは意見の対立も辞さない態度で臨むべきなのか。
受け入れてはならないラインをどこに引き、どのような場合であれば職を辞する覚悟を持ってでも、事に臨むべきなのか。
悩みに悩んだ経験から、同じようなことで葛藤する役員に対する一つの考え方を提供し、その一方で、経営トップにある人には、役員の覚悟と葛藤を推し量る一助にしてもらいたい。
裁量労働制の拡大解釈
この会社では大きく2つ、経営トップは許容できる範囲を越えてきた。
まずはその2つのうちの1つ、裁量労働制の運用とそれに伴う暴力、その際に私が役員としてどう考え、そしてどう行動したのか。
そのお話から始めてみたい。
当時会社は、ある程度安定的な実績を挙げ、そこから上がった利益を研究開発に回し、将来的な新しい事業を育てるという常識的なバランスで経営が成り立っていた。
しかしこの将来投資の部分では、ベンチャー要素が強くなかなか収益化のめどが立たなかったことから、経営トップは実績のある人材を外部からヘッドハンティングし、取締役本部長に据える。
なお当社はこの時、新入社員であっても全て裁量労働制で労働契約が結ばれており、いわゆるみなし労働時間制度の下で許容を超える勤務を従業員に要求していた。
裁量労働制とは実際の労働時間とは無関係に、あらかじめ定めた労働時間分を働いたものとしてみなすことができる制度だ。
試験研究、マスコミ、その他弁護士などの専門性が高い業務に従事する人で、いわば経営者と同様に、時間の使い方に裁量を与える必要がある仕事で成果を求められる人に適用できる制度である。
例えば毎日9時間働き、みなし残業代を1時間つけるという労働契約を結ぶことで、外形的に労働者は毎日9時間、自分の裁量で働くという勤務形態になるが、その実態は残業代1時間分で働かせ放題となることがある。
なぜなら、「自分の裁量でこれだけの仕事をこなすように」と、結果として仕事が与え放題になるからだ。
裁量労働制を悪意を持って運用すると、このような使い方が可能になる。
本来は、与えられた仕事に対し時間の使い方が自由であるという制度の趣旨なのだが、こういった本来の在り方を無視し、仕事を無制限に与え時間内に終わらせろと迫り、そして本人が受け入れれば表向きの違法性はない。
もちろん、見なし残業分も既に定額の残業代に織り込んだ契約になっているので、自分の裁量で終わらなかった分の仕事は自分の裁量でやり切れということになる。
深夜までかかろうと、それは自分の時間の使い方なので社員の自己責任というわけだ。
この制度を、新入社員にも適用して労働契約を結ぶのは明らかに制度の趣旨に反するが、「労使が合意すれば」こんな脱法行為も表向きは合法になり、問題が表面化する可能性は極めて低くなる。
そんな人事制度の下で取締役本部長に就任し、成果を求められた新任責任者だったが、当然役員に対する要求はそれ以上に厳しい。
やがて期限内に所定の成果を挙げられないことで経営トップから厳しく叱責されるようになった彼は、その叱責を部下とのミーティングに怒りの矛先をそのまま持ち込み、物理的な暴力を振るうこともあった。
さらに実労働時間の問題である。
会社では、裁量労働制でもエクセル表でのタイムカードを手入力で記録するよう指導していたため、月末になると各社員の実稼働時間が把握できる仕組みがあった。
そのエクセル表が保管されているサーバー領域へは私もアクセスする権限があったため、状況を察知してからは当該部署の社員の実労働時間を必ずウォッチするようにしていたが、実質的な残業時間は月に200時間を越えるような社員すら発生するようになっていた。
月の休みが1日しかない者もおり、もはやこれは仕事の域を超えている。
例を上げていけばキリがないが、2016年9月に自殺した、大手不動産会社で裁量労働制と言う名の営業職にあった50代社員の場合、月の残業が180時間で過労死自殺が認定された。大きな社会問題にもなった大手広告代理店の女性社員の場合、およそ105時間が認定されたが、もっともこれは実数よりかなり少ないとは言われているものの、その意味するとことは100時間の残業でも過労死に至る可能性があるということだ。
なお現在の労働行政では、月に80時間以上を過労死ラインとして上げている。
従業員は経営者ではない。
経営トップを含め、その経営トップと会社と共に心中する覚悟で役員をしている者であれば、成果が出なければ無限に働くのもムリはない話だ。
むしろ、仕事が終わらないのに家に帰って布団に入っても、とても寝ることなどできるはずもない。
しかし、同じような働き方を従業員に求めるのは明らかに間違っている。
成果ではなく、定められた仕組みの中で役割をこなすことが求められる従業員は、このような働かせ方をしてはならないからだ。
やがてこれらの状況が改善しないまま3ヶ月ぐらいが過ぎた頃、私は経営トップの下へ行き、このように切り出した。
「社長、開発部署のマネジメントが異常です。所要でフロアに行くと激しい罵声を耳にしたこともあり、とてもまともな仕事が進められていると思えません。」
「そうですか。他に目についた問題はありますか?」
「社員の労働時間も問題です。数字が事実かどうかはわかりませんが、1ヶ月間で1日しか休みが無い者もおり、実質的な残業時間は皆、総じて180時間を越えています。許される範囲を超えています。」
「もちろん把握していますよ。言われるまでもなく。では仕事の進捗はどう考えますか?」
「成果はともかく、社員の使い方は明らかに間違っています。成果を出すための最善の方法とも思えません。まずはまともな状況に戻してから、改めて計画を引き直すことを考えて下さい。」
「わかりました。まずは役員会に諮ることを認めますので、問題点を整理して次の役員会に上呈して下さい。」
この時の私の行動の理由は至ってシンプルだ。
ここまでの状況になった場合、経営トップが自ら現場に足を運び、直接改善すべきである。
裏方である自分が表に出て直接役員のやり方を批判しても、余計状況は悪くなるだろう。
まして、いきなり議事録に残す必要がある役員会に上程することが問題解決に繋がる有効な方法とはなりえない。
そう思っての経営トップへの直談判だったが、そういった趣旨の説明をしても、
「まずは役員会に上げてください」
と譲らない。
やむを得ず私は後日、役員会に上程し同様の説明をして、正常な範囲で進められる事業計画に巻き直すことを強く進言した。
ある程度予想したことだが、それに対する担当役員の反論はとても激しいものだった。
さらに最後には、
「あなたが十分な運転資金を調達してくれば、人を雇って期限も伸ばすことができる。対案があるならそういう意味のあることを言うべきではないのか。時間の猶予を伸ばしてくれるのか?」
と、攻撃の矛先をCFOである私にも向け、自分で発する言葉に興奮しますます攻撃的になってきた。
私はそれに対し、
「客観的に許されない長時間労働を投入しなければ実現できない事業など、中止するべきです。そもそもそんなことをしても、逆に非効率でしょう。」
「投資や融資は、資金の出し手が経営者の夢に共感し、その会社の将来を信じてお金を預ける行為です。あなたの能力の無さを調達理由にしてお金を出す人がいると、本気で思っているんですか?」
と言う趣旨の反論し、やがて収集がつかなくなってきたところで経営トップが仲裁に入った。
「うちは社労士の指導も受けて労働契約を結んでいる。今のやり方で大きな問題はないと考えます。」
「ただ、エクセルのタイムカードの付け方はもっと正確に書くように指導して下さい。」
「厳しい指導は程々にして下さい。」
と言ったような引き取りをしてしまい、問題はここで完全に終わらせられてしまった。
議論は完全に私の負けだ。
この会議では状況を何一つ変えることができず、なおかつリスクをさらに抱え込み大きくする可能性を放置せざるを得ない結果となってしまった。
とはいえ、この状況だけをもって私が辞任を申し出ることは明らかに間違っている。
そして心の何処かで、「経営トップが認めた以上、自分にはもうできることがない」と諦めに似た感情があった事も否定できない。
そして私は、自分の力では解決できない問題として整理をつけようかと、考え始めていた。
そんなある日、この問題は最悪な形で簡単に臨界点を越えてしまった。
従業員の自殺だ。
さらにその10日後に、もうひとり別の社員が自殺し、その1週間後には社員が自宅から居なくなり、そのまま行方不明になってしまった。
この自殺の連鎖というものを身近に経験したことのある人はほとんど居ないだろう。
自分ではどうしようもない問題を抱えている集団は、誰か一人が自殺をすることで問題から「解放」されたように思えてしまうと、同じ問題に悩む周囲の者たちは、いとも簡単にそのような選択肢が身近なものになってしまう。
このことを理由とした役員辞任の意志は固め辛かったが、それでも自分の中で、この会社と経営者の夢をともに追うことはできないという想いは決まりつつあった。
違法行為を拒絶した先にあったもの
このようなこともあり、会社は一時期大きな混乱を経験するが、やがて社員も落ち着き、表向きはいつもどおりの日常を取り戻した。
とは言え、やはり経営トップが根本的にアンモラルな価値観の持ち主であれば、CFOのポジションは常にハードな要求に晒される。
「人件費を経費から資産に繰り入れて、減価償却で少しずつ落とすような操作はできませんか。」
「セール&リースバックを使って売上を大きく見せる方法を検討して下さい。」
などのように、誰に入れ知恵されたのか小手先にも程がある頭の悪い会計処理を要求し、売上は大きく経費は小さく、すなわち儲かっているように見せる粉飾を次々に指示する。
そのような要求の多くを突っぱねることはできたが、全てがうまくいくわけではない。
そんなある日、経営トップが言い出した不正行為は結局最後まで阻止することができず、そして私が会社を去ることを決める直接の引き金にまで発展する。
話はある日のこと、新しく始めるプロジェクトの運転資金を確保する方策を議論していた時のことだ。
「雇用調整助成金、知っていますよね。あれ使うことを検討して下さい。」
「雇用調整助成金は、社員を休ませてその休業分を補填してもらう補助金ですよ。今、社員を休ませる余裕はありますか。」
「そうですか、わかりました。ではこのタスクはあなたに与えません。」
彼はそう言うと、私の部下である総務の担当者を呼び、彼に制度の趣旨を一通り説明した上で責任者に据え、そして私を職位から下ろすことを決めた。
「会社のためにリスクを負う意志がない人は、役員とは言えません」
彼は最後にそう私に言い渡すと、CFOの職務に専念することを要求。
私はせいせいした気分で職責を返上したが、それは口先だけでなく、どうやら次の総会で取締役も重任させない勢いで、私は彼の不興を買ったようだ。
しかし間の悪いことに、その時はちょうど株主総会が終わったばかりで、次の総会まで1年近くがある、何ともやり難い時期ではあったが、自分から辞任を申し出る筋合いがない話で任期途中に辞めるという選択肢は無い。
そして何よりも、その会社の取締役に就いた経緯を考えると、中途半端に逃げるという形はとれない。
結局私は、やれることは最後までやり切り職責を果たすことを決め、引き続き何事もなかったようになすべきことを行った。
しかし事態は、思わぬところから急に動き出す。
当該助成金を管轄する役所から、抜き打ちの立ち入り調査が当社に行われたからだ。
当時、どれくらいの規模で誰を休ませていたことにしていたのか、詳細までは把握していなかったが、振り込まれる金額はとても大きなものだった。
自業自得で当たり前と言う他はない。
この際私は、申請担当者・申請責任者のいずれでも関わりがなかったので調査に同席することはなかったが、ただひとこと、
「従業員の経費精算書類を一式出して下さい」
とだけ、調査官から依頼があった。
既に職責を降りていたので畑違いの要請ではあったが、その程度の伝言はできる。
私は経理担当者に伝言し書類の一式を渡すよう指示したが、税務調査と同様であり、どれだけ上辺の書類を整えたところで、無数に存在する経費精算とその領収書には、必ず従業員の動いた痕跡が残っているものだ。
私の役職上、少しは調査対象になっても良さそうなものではあったが、結局私は最後まで一度も呼ばれることがなかった。
しばらくして、経営トップは私を呼び出すと、私にとって最後のトリガーとなる以下のような指示を出してくることになる。
「今回の出来事の責任は貴方にあります。その責任をとって役員を解任し、部長職に降格します。このことを役所で証言して、さらにステークホルダーにも速やかに説明して廻って下さい。」
この指示は、さすがにその場で経営トップと会社を見限るには十分なものであった。
そして私は努めて冷静に、できれば受け入れられるよう願いながら、心に留めていた思いを口にし、時期を見て辞めることを申し出た。
すると彼は激怒し、
「わかった。時期を見る必要はないから今すぐ辞めろ。今すぐ全てを置いて出て行け」と、感情的に一気に喚き立てた。
それではさらに会社が大変なことになることは目に見えていると、考え直すことを勧めたが、もはや彼は聞く耳ももたない。
そして私は結局、本当にその日が最後の在職の日となってしまった。
しかし、私にとっても会社にとっても本当に大変なのはここからだった。
私はお世話になったステークホルダーや監査法人、税理士や銀行に挨拶に出掛けるべく、退職後のタイミングにはなったが、翌日から挨拶回りを始めることになった。
しかしそうしている間にも、携帯には次々に電話が入る。
当たり前だ。
CFOが突然、即日、予告もなく会社を去るという異常事態は、ステークホルダーにとってそれほどにインパクトのあることだからだ。
それらの問い合わせにはとりあえずお会いをした上で全て誠実に答えるようにはしたが、辞め方が辞め方である。
なかなか全てを話さないわけにはいかないものの、一方で役員としての矜持を失うようなプライドのない振る舞いもできない。
そのため、「経営者との価値観において、どうしても一致することができませんでした、申し訳ありませんでした」という趣旨の説明に終止せざるを得なかった。
そして更に大変なのは、会社の方である。
メインバンクは私の辞任後、程なくして各種取り引きから撤退。
融資の借り換えにも応じず完全に手を引かれてしまったと、経理担当者からの連絡で知ることになった。
調査の結果としては、公金を不正に受給していた行為が認定されたため、その後、全額の返還を求められることになったことだろう。
他にも様々、経営者として価値観の合わないことはあったものの、大きくはこの2点であっただろう。
どちらも経営トップの経営方針に正面から反対し、その姿勢を批判し、結果として修復が容易でない溝を生んでしまった。
そして最後は会社を去ることになったが、この際に取った行動は、他の状況とどう決定的に違ったのだろうか。
私は、そして役員は、経営トップがどの一線を超えてきた場合に、その思いの実現を諦めてしまうのだろうか。
そんな考え方について、最後に少しお話してみたい。
「武士道」の本当の意味とは何か
会社で役員を務めていると、やはり一義的には経営トップの考え方に何よりもプライオリティを置く。
特に中小やベンチャー企業であれば、経営トップはオーナーである事も多く、その思いを実現する頼りになるスタッフとして全力を尽くすことは役員の義務である。
一方で、IPOの旗を立て外部株主にも参加してもらうようになると、常に経営トップのわがままを聞き放題というわけにはいかない。
なぜなら経営トップには、株式公開企業を目指す会社の経営者としてふさわしい人物になって貰う必要があるからだ。
自然とその振る舞いには、人の資本を預かり運用する資格がある経営者としてふさわしい人物であることを求める。
もちろん、実態として中小ベンチャーである以上、なりふり構わずに売上を取りに行き、いろいろな意味でギリギリの選択をし、時には演出をする必要に迫られることもある。
株主だけでなく役員会でも、賛否両論どころか経営トップだけが強硬に推し進めたいと主張する施策もあるはずであり、そしてそのような強力なリーダーシップはベンチャー企業にとって何よりも大きい成長のエンジンだ。
中途半端な思いで否定するべきでは決して無い。
では、一体経営者がどのラインを越えてきたら、役員は最後の決断をするのだろうか。
私はおそらくそれは、無駄に「死ね」と言われた時だと考えている。
もちろんここで言う死ねとは、悪口の話ではない。
話は急に飛ぶようだが、日本人は武士道という言葉が大好きだ。
サムライジャパンなどのように、日の丸を背負う日本代表には常に武士のイメージを重ね合わせる程に、武士と武士道をいう言葉を愛する。
では一つお聞きしたい。
このコラムをお読み頂いている人の中で、武士道とはなにかを、本当に説明できる人はいるだろうか。
「武士道とは死ぬことと見つけたり」という『葉隠』の一説が有名になり独り歩きしてしまい、武士道とは死ぬ覚悟を持つことだと勘違いしている人が多いように思われる。
また武士道という道徳はそもそも哲学的な側面を持っており、様々な先人がそれぞれの立場で解釈を重ね続けた価値観であることを知らない人も多いかもしれない。
つまり、武士道という道徳には様々な側面と様々な解釈があるということだ。
ちなみに武士道という考え方を通じて初めて日本人の道徳観や価値観を世界に広め正確に伝えたのは、一定以上の世代には懐かしいであろう旧5000円札の人物でお馴染みの新渡戸稲造博士だ。
1900年にアメリカで「Bushido ~The Soul of Japan~」という本を刊行し、以来セオドア・ルーズベルトやケネディ両大統領も手に取り、日本人の価値観を理解する上で役立て、なおかつ側近にも一読を勧めたことで知られている。
その上でだが、私なりの武士道の解釈とは生きる覚悟を持つことだと思っている。
より正確に言うと、明日死んでも良いというつもりで今を大事にし、一分一秒を真剣に生きる覚悟を持つということだ。
武士とは常に死と隣り合わせの職業であった。
次の戦で死ぬという時間的猶予すら無い。
今日この瞬間にも刺客が襲ってくるかも知れず、1時間後には自分は死んでいるかも知れないという人生の中で、常に自分がなすべきことは何かを自問し続け、人生を真剣に生きようとした人の価値観である。
翻って現在、人は不幸にして自分の思い通りに生きることができない人生を送っているその途上で余命半年などを宣告されると、もっとこうしておけば良かったと後悔を感じる人が多いと聞く。
非常に残念なことだが、それもやむを得ないことだろう。
現代人は武士道精神からもっとも遠いところで生活しており、死を意識する瞬間は、もうどうにもならない余命の告知まで追い詰められてから、という運命を義務付けられているからだ。
だから人生の最後の瞬間に、もっとこうしておけば良かったという不幸を背負い、この世を去っていく人は後を絶たない。
皮肉なことに、死を意識する必要がなくなったからこそ、生きることに真剣になる必要がなくなったと言い換えてもいい。
しかし経営者は違う。
特に経営トップは、その目が時に常人のそれと違い狂気に満ちているように見えるのは、その生き方が真剣であり、常に死を意識する武士道の心理状況に近い一分一秒を過ごしているからだ。
経営トップが1つ手を抜けば、全従業員が10の手を抜く。
経営トップがここまででいいやと自分に妥協したら、全従業員はもっと手前で自分に妥協する。
そして会社は立ち行かなくなり事業は頓挫し、経営トップだけならまだしも、全取引先に迷惑がかかり、従業員とその家族は職と収入を失うことになる。
こんな緊張感を常に強いられていれば、生きることに不真面目になることなどできるはずがないのが、経営者という存在だ。
ある意味で、いくら高額の報酬を受け取れるからと言ってこんなに割の悪いポジションもないだろう。
考えてみて欲しい。
経営トップは常に全従業員に対し公平であり、間違ったことをせず、モラルと人徳のある存在でなければ許せないと考えたことはないだろうか。
少し背中を丸めて座っているだけで、だらしがないと感じ、自分のトップはもっと誇れる人であってほしいのにと感じたことはないだろうか。
ただ安心して欲しい。
世の中の多くの経営者は、正直余り人の目など気にしていない。
そして、死を意識して生きているというわけでもない。
ただ、自分のやりたいこと、実現したことが余りにも多すぎてあるいは大きすぎて、人生が短いことにストレスを感じているだけだ。
だから一分一秒を大事に生き、そしてそんな生き方を楽しんでいる。
そして話は役員が「死ね」と言われた時の話である。
生きることに真剣であるということは、裏を返せばいつ死んでもよいほどの覚悟を持ち生きることだという解釈は先述のとおりだ。
そしてその生き方は、自分の命が本当に必要な時であれば、いつでも命を捨てる覚悟があるということである。
私はそれが、「武士道とは死ぬことと見つけたり」という言葉の真意であると解釈している。
そして、そんな生き方を自然体で実践できている経営者であれば、役員や従業員といった自分の大事なパートナーに、全くの無駄でしか無い局面で「死ね」と命じることなどありえないだろう。
自分の利益のために、或いは組織の成長の道具や捨て石として軽々しく「死ね」などと言われたところで、その「死」には全く大義はない。
当社の場合、残念ながら経営トップは、度重なるアンモラルな価値観で下した極めて稚拙な経営判断の失敗の結果として、大事なパートナーの命を失わせた。
そして私にも、経営トップ自身の失敗の責任をとって死ねと指示した。
話がやや大きくなったので、これをよりシンプルにわかりやすく言うと、
「なんでそんな事しなければいけないのか、意味がわかりません」
である。
役員であれ従業員であれ、納得出来ないことを実行するのは大きなストレスになる。
ましてそれが、世の中で許容されるスレスレのことであればなおさらであり、そして違法行為とみなされても仕方がないようなことであれば、より大きな大義名分が必要になる。
どれだけ必要と言われても、簡単に人を刺したり撃ったりできるものではないと言えば、より理解して頂けるのではないだろうか。
家族や愛する人の命が掛かっている緊急事態であれば、あるいは全身からアドレナリンを噴き出しながらやっと人を刺すことができるかも知れないが、足を踏まれたくらいで人を刺せと命じられても絶対にできない。
武士道精神とは言わずとも、人はそれぞれの立場で真剣に生きている。
そして仕事や使命感に賭ける人生という意味においては、その意識が強い人から経営者になりあるいは役員に選ばれ、より重い責任を背負っていくことになるだろう。
にも関わらず、その相手の人生に敬意を払わず思いを理解せず、無駄死にをさせ続け、さらに指示を続けた場合、役員以下の大事なスタッフは必ず経営者を見限る。
経営トップはそのことを必ず、強く意識する必要があるだろう。
役員の矜持としてあるいは経営者の生き方として、本稿がわずかでも皆さんの参考になるようであれば幸いだ。