発行体からみた、成功するベンチャー投資の方法とは

発行体からみた、成功するベンチャー投資の方法とは
VC(ベンチャー・キャピタル)関係者をいきなり挑発するようで恐縮だが、日本のVCは総じて投資能力が低い。
これまでCFOとして直接、もしくは社外役員の立場で間接的に十数回、数十億円の投資を受けてきたが、「上っ面」から踏み込み、的確な指摘と的を射た質問や助言をする株主というものに、極めて一部の例外を除き私はほぼ出会ったことがない。
誰もが知る独立系の一流ベンチャー・キャピタルから証券系、都銀系のベンチャー・キャピタルまで、有名どころで関わりがないところは1社もなく、また一部地銀系のVCからも投資を受けた上での感想なので、恐らくそれほど視野狭窄な見方ではないだろう。
投資を頂いてきた立場でありながら、このような“告発”は無礼極まりないことは承知しているものの、投資家の能力の無さは日本のベンチャーシーンを劣化させる大きな原因にもなっていると危惧している。
そのため、このような立場をわきまえないコラムを執筆しているが、あくまでもその動機は日本のベンチャーシーンをより良いものにしたいという思いからだ。
動機に免じて、どうかご容赦頂ければ幸いだ。

このような傾向は、本来は投資のプロであるはずの証券系VCも例外ではなかった。
準大手の証券会社系VCで、ハンズオンを社名にもしているVCもあったが、ここの担当者は財務諸表の読み解きにも難があるほどであった。
どちらがハンズオンされているのかと恥ずかしくなるほどであったが、このような担当者から投資を受けることは、投資側はもちろん、発行体(会社)にとっても大きな不幸になる。
なぜならそれは、キャッシュの調達について経営者の感覚を誤らせ、勘違いさせ、このような方法を知ることがなければ堅実に成長していたかもしれない事業を崩壊させる可能性もあるからだ。

少し、景気の良かった頃の話をしたい。
発行体にとって直近、景気の良かった頃とは2000年代に入ってすぐの頃。
概ね2000年~2005年くらいまで続く、ITバブルの頃からバイオバブルの頃までの話だ。

この時代、東京証券取引所ではIPO市場が活況を呈していたことも有り、雨後の筍のようにVCビジネスが乱立し、大手各社は多くのファンドを立ち上げ、その資金の行き先を争って探していた。
都銀でもVC部門を持たない会社はなく、まるで融資をするかのように投資をし、その際に基準になったものは、極論すれば「ITかバイオであればなんでも良い」という有り様である。

そして、この時のVCの投資姿勢は悲惨であり劣悪であった。
特に都銀系のVCに見られる傾向だったが、
「A社(独立系VC)が投資を決めればうちも参加する」
「他のVCが投資するならうちも投資する」
ということを公言して憚らず、なおかつVC担当者同士は守秘義務もへったくれもなく、投資を検討している会社の情報を当たり前のように意見交換しあい、それぞれの情報を突き合わせて“談合”を重ねていた。

早い話が、
「皆が投資をして、うちだけが投資をしないとマズい」
という姿勢だ。
そしてその成果については、投資先がデフォルトしても、多くのVCも投資をしていればセーフ。
逆に、多くのVCが投資をしてIPOを果たしたのに、自社だけが投資をしていなければ相当まずいということで、直前期あたりに相当な高値で、僅かでも株を持たせてもらおうという動きも目立った。

そこには、投資家としての明確な信念もなければビジョンもない。
ベンチャービジネスに投資をすることでどのような思いを実現したいのか、という情熱もない。
ただひたすらに失敗を恐れ、なおかつその失敗とは、本来の目的であるキャピタルゲインや運用益確保の失敗ではなく、「自社だけがハブられた」という状態を避けることであり、このようにしてVCの現場は劣化していく。

このようなマーケットにあると、発行体はどのように行動するだろうか。
自社で主体的に投資を判断する能力のないVCを相手にせず、彼らがその投資判断能力をあてにするVCの抱き込みに走る恐れを導く。
抱き込みというと不正を感じさせる言い方になるが、早い話が取引先担当者の面談設定や肯定的な情報の提供などを、「業界のキーマン」たる一部の会社に集中的に供給することを意味している。
そうすれば、自社で投資を判断する能力のない会社はこれらキーマンから情報を得ようとするので、こうして投資に前向きな集団が形成されていくことになる。

10人の人間の投資判断を支配するのは困難だが、1人の人間の投資判断を支配するのはそれほど難しいことではない。
しかしVC業界では、その1人の投資判断が10人の投資判断を支配してきた事実がある。
このようにして、業界があてにするキーマンから前向きな投資判断を引き出すことができれば、後は芋づる式に投資家がまとまって集まってくることになり、時にバカらしいほどの「集団自殺」が現出した。

その結果何が起こったか。
一部投資判断能力のある会社を除いて、VC業界からのほとんどの会社の撤退だ。
2000年代初頭からのマーケットを知るものとして、今のVC業界は当時のプレイヤーがほぼ存在しない、焼け野原になってしまった感がある。

それもそのはずで、結局のところ自社の資金を自社の判断能力でリスクを担保できないビジネスなど、それが儲かるかどうかに関わりなく、やるべきではないと、多くの会社が気がついたからだ。
早い話が損をした上に、その損失の原因を分析することすらできず、次に活かすこともできない事が明らかになったので、撤退したと言っていいだろう。

しかしこの時代、VCは決して被害者ではない。
むしろ加害者であると言っても良い。
それはなぜか。

一つには、嘘でもいいから成長の意志を見せ、なおかつそれなりに事業の体が整っていれば投資をするような真似を繰り返したために、結果としてベンチャービジネス経営者を潰し続けたからだ。
堅実に着実に成長を企図していた経営者も、10年分の利益からもたらされるフリーキャッシュが突然振り込まれれば、経営判断を誤り過剰投資に走り、身の丈に合わない規模拡大に走ってしまい、結果として事業を潰した事例は枚挙に暇がない。
余剰現預金にはそれほど、経営者の判断を誤らせる力がある。
言ってみれば、ファンドで集めた資金の消化先に困り、そこまでの資金使途需要がないベンチャービジネス経営者に付け替えただけだとも言えるだろう。
このような状態に置かれた経営者が、経営判断を誤るのは当たり前だ。

さらにもう一つ。
最大の被害者は一般投資家であると言う事実だ。
当時を知るVC関係者であれば、「圧縮技術で時価総額1000億円超え」をしたIT関連の会社といえば、どこのことかすぐに分かるだろう。

この会社の技術力は、当時も今も、フリーソフトでも手に入るアプリの延長にあるようなものであった。
しかしながら、「有名美術館がその技術を採用」というエッジの効いたニュースを皮切りに一気にベンチャービジネスの雄として扱われ、VCの多くが投資。
程なくしてIPOを果たし、売上も利益も僅かであるにも関わらず、時価総額1000億円超えという狂乱ぶりを露呈した。

当時、有名VCのほとんどが巨額の投資をしていた上に、主幹事証券は権威あるあの会社だ。
VC関係者との兼ね合いで上場させないわけには行かなかったのだろう、という噂を今も聞くことが多いが、結果として大儲けしたのは主幹事証券とVCのみであり、IPO後に掴んだ一般投資家はほぼ100%討ち死にである。

こんなことをしていて、ベンチャー企業銘柄への信頼が確保されるわけはないではないか、というのが当時を振り返った偽らざる思いだ。
そして、こんなことをしているから、IPOマーケットは極端な規制を受けることになり、その後の真冬の時代を迎えることになる。
そして多くのVCは大損を抱えることになり、その多くが事業から撤退していった。

いわば自業自得の結果なわけだが、なぜ日本のVCとベンチャービジネスを取り巻くマーケットはここまでひどい状況に陥ったのであろうか。
そしてこのような状況に陥らずに、ベンチャービジネスを育成するマーケットの育成をするために、投資家はどのように考え、そして行動するべきなのだろうか。

INDEX
日本VCが海外VCに勝てない理由
VCの徹底的な結果追求の甘さが悪循環を招く
ベンチャーと共に歩み、育てる

日本VCが海外VCに勝てない理由

もはや内燃機関で走るガソリン車が駆逐されるのは時間の問題だ。
2030年頃までには、EV(電気自動車)を始めとした新しい動力自動車が新車販売の主流の時代になるだろう。
そしてその20~30年後には、もはやガソリン車はレトロな扱いになり、日用品としては完全に姿を消す事になるはずだ。
そんな中、京都に一つの電気自動車ベンチャーが誕生し、話題を集めて久しい。
その会社の名前は、GLM株式会社。
電気自動車のスポーツカーを開発するベンチャー企業で、京都から誕生した久しぶりの期待の銘柄だ。
公道を走れる高性能の電気スポーツカーの量産に成功して、その販売実績もまずまず立ち上がってきた、話題の会社である。

そのGLMが、2017年7月に香港の投資会社から巨額の投資を受け入れる事が発表され、VBマーケットの話題をさらった。
未上場で、売上高が数億円の企業に対し、100億円を超える投資が為されたことになる。

GLMは、登記簿を取り寄せて分析しても種類株の発行があまりにも多く、正直言ってその経営権の本当の所在は掴みにくい。
とは言え常識的に考えれば、未上場企業で100億円を越える投資を受け入れたのであれば買収であり、その株主の傘下に入ったと考えるのが妥当だろう。
実際に日経新聞はそのような趣旨でこの投資劇を報じていたので、恐らくそういうことなのだと思うが、早い話がこのような投資をなぜ日本企業ができないのか、ということだ。

一般に日本の自動車メーカーは、EVの立ち上げが遅れているとされる。
元々、内需だけで十分な売上が担保出来る日本のメーカーは、グローバルな需要に鈍感であるというのが伝統的な弱さと言っても良い。
そしてそのような内需の強さとグローバル意識の弱さが「ガラケー」を生み出し、スマホ端末へのシフトが遅れた大きな敗因になった。
なおかつガラケーと違い、スマホ時代には国内の需要まで海外勢に食われてしまい、通信端末はパソコン事業を含めて総崩れの状態にあるのが2017年のマーケットの状況と言っていいだろう。

そしてそのような中、電気自動車のベンチャーまで「青田買い」で、海外勢に食われてしまった。
こんな言い方をしては何だが、たかだか100億円そこらの買い物など、日本の自動車大手にとっては平取(役無しの取締役)でも、事実上の決済が出来る買い物ではないだろうか。

ベンチャー企業は多くの場合、先進的なマーケットを目指す企業であれば99%は死ぬ。
ラーメン店や居酒屋をやろうという、安易な考えの街のオヤジよりも高確率で死ぬ。
その寿命は10年どころか、多くの場合は5年以内だろう。
VCの投資で生き延びられるのはせいぜい3年であり、3年以内に目立った成果が出なければ、多くのVCは追加投資をためらい手を引き、そしてリビングデッド(法的整理はしていないが事実上の活動停止)に陥る。

そんな中、明らかに赤字続きであったことは想像に難くないこの電気自動車の会社を、世界の自動車産業最先進国である我が国のメーカーが買わずに、香港の投資会社が買収したのは衝撃であった。

自動車メーカーとは言わず、パナソニックなどの電機業界の雄である各社が買っても良かったはずだ。
事実、パナソニックはEVデバイスメーカーとして研究開発を進め、投資に積極的な姿勢を見せており、たかが100億円ほどの買い物は、こちらも高い投資ではなかったであろう。

日本国内のVCにしても同様だ。
GLMが単体で生き残り、単体として自動車メーカーとして生き残るとはとても思えないが、その事業価値に対し、投資会社が100億円を越える値段をつけたからには、最悪の場合でも、B/Sに現れない簿外の価値があると試算したことは間違いないだろう。

そしてこれこそが、投資の目利きだ。
B/SやP/Lに現れる価値は、言葉を選ばずに言えばバカでもわかる。
言ってみれば、1000円分の株主優待券を950円で仕入れて980円で売りさばく金券ショップのようなものであり、損はしないかもしれないが儲けは相当薄い。
しかし、VCが本領を発揮する領域とは、財務諸表に現れないその会社の将来価値を見抜くことであり、その能力がなければベンチャー投資などやるべきではないことは言うまでもないはずだ。

そして、目に見えない価値を見出したということは、最悪の場合事業や技術をバラ売りしても、ある程度は回収できる販路にアテがあるというめどを持っていると言うことであろう。
そうでなければ、数億円程度の売上しか無い会社に100億円の投資をする道理はない。

すなわち、もっとも良いシナリオで行けば100億円をペイするほどの自動車メーカーとして成長すると期待ができる。
現実的なシナリオで考えると、技術的な優位性を維持するめどが立っているので、その経営を維持する資金援助をしながら、形になったところでEVに取り組むいずれかの会社に売却する考えなのではないだろうか。
なおこの場合、我が国の自動車メーカーというよりも、アジアを始めとした“made in Japan”ブランドに価値を見出すいずれかの国のメーカーに売却するあてがあると考えるのが妥当だ。
そして最悪のシナリオでは、事業が立ち行かなくなっても技術のバラ売りで1/10程度の回収の見込み、すなわち10億円程度は回収できると見込んでいるのではないだろうか。

このような投資先を10個持っていれば、最悪の場合1~2つがミドルかアッパーの結果を得ることでリターンを得ることが出来る。

しかし、日本の企業も投資会社もこのような目利きはできないし、投資をすることもない。
何故か。
投資担当者に事業の目利きをする能力などなく、先述のように、サラリーマン丸出しの情けないリスクヘッジの投資判断をするしか、投資に関する権限が与えられていないからだ。

今から15年程前であろうか。
独立系VCの私の知る担当者は、1億円の投資案件をIPOによって30億円を超える案件として回収し、1億円近い特別ボーナスを手にして会社を早期退職した。
当時60歳前でいい年のおっちゃんであったが、30代の若い女性と結婚して人生初の子供まで設け一発逆転を果たしたのは、関西のVC業界ではちょっと知られた伝説の人だ。
もしこのような成果報酬がより一般的になれば、或いはVC担当者の目の色も変わり、より殺気立った投資スタイルに変わるかもしれない。

しかし、銀行系のVCでは何が何でも、このような報酬スタイルの導入はありえない。
まして、本来であればハイリターンにはつきものであるはずのハイリスクすら従業員には負わせることが法律上不可能なので、結局のところ、VCビジネスに適した人材が育つわけがないのが実情と言って良い。

このような事情もあるのであろう。
大手VCのビジネスはIPOをイグジットとしたリターンの追求ではなく、ファンドの管理報酬で利益を確保する運用スタイルが当たり前だ。
リスクとリターンのバランスで言うと、保守的になるのも無理はない状況だ。

本来であれば我が国の政策上、これだけの低金利政策が続けば、わずかでもリスクを取ったベンチャービジネス投資に資金運用が向かってもおかしくはないはずだ。
にも関わらず、大手企業は内部留保を厚くし、たかが100億円程度の捨て金すら惜しみ、将来投資の意欲を失っている。
このような社会情勢であれば、敢えてリスクを取って起業し、可能性に溢れる会社に成長できたベンチャー企業は、海外勢に買われるか、あるいはその影響下に入るのは当たり前ではないだろうか。

さらに大きな問題がある。
それは、投資担当者に対してハイリスクハイリターンの報酬体系を用意できない制約の存在だ。
投資が上手く言った場合のみハイリターンを用意するだけで、失敗をしても生活に困るほどの考査や減給がないのであれば、それは会社の金で当て物をやっているに等しい。

人はローリスクでハイリターンの状況では、ローリスクローリターン、ハイリスクローリターン、ハイリスクハイリターンのいずれの場合よりも確実に無責任になる。
当たり前だ。
決断に責任が伴わないのに、結果の果実だけを得られるのであれば、誰だって決断が軽くなるに決まっている。
とうよりも、無責任な決断を多くこなしたほうが当たりを引く件数が多くなるに決まっている。

このようにして、歪な日本企業の責任体制の下で運営されたVCビジネスは、そのほとんどがマーケットから退場していった。
とても残念なことだが、必然の状況であろう。

そしてそのような無責任な投資担当者から、冗談みたいな資金を得た経営者は、笑い話にもならない散財をして会社を傾かせ、我が国のベンチャースピリットの多くがその萌芽のうちに立ち枯れていく憂き目を見た。
この厳しい状況は、必ず改善されなければならない。

 

VCの徹底的な結果追求の甘さが悪循環を招く

都銀系のVC担当者は、ハッキリ言ってそのポストは閑職に近い。
エースが行くポストでは無いために、曖昧な投資ポリシーであれば、自らがリスクをとるような投資判断に積極的にならない理由があるのも無理はないだろう。
まさにハイリスクローリターンであり、銀行家として説明の付かない投資判断をする理由がなく、その投資判断はますます融資に近いものとなり、利ざやは限りなく薄くなる。
一方で、VC関係者はそこまで甘い存在ばかりなのかというと、もちろんそうではない。
甘い話ばかりが続いたので、舐めた態度で投資を受け入れ、結果として投資家に対してイグジットを示すことができなかった会社と経営者はどうなるのか、という話をしてみたい。

ある独立系VCとの話だが、2億円ほどの投資を受け入れた案件で、持株比率7%ほどの株主になってもらったことがある。
これは独立系でも銀行系でも同じだが、概ね最初の1年ほどは余り厳しい姿勢を見せず、どちらかと言うと取引先の世話をしてくれるなど、その事業計画の達成に前向きな協力を見せてくれる。

一方で、予実差異(予算と実績の差)が大きくなり、計画の未達成が続くようになると明らかに態度が変わり始める。
定性的な言い訳、すなわち大手取引先の事業計画の遅れやマーケットの環境変化と言った、もっともらしい理由で納得をしてくれるのは最初の数回程度であり、この状況が2期(2年)も続くと、予実差異要因に対する定量的な数字の説明を求められることになる。
すなわち、マーケットの環境要因変化はわかりましたと。
その要因ではどの部署でどの程度の売上未達が発生したのか。
そしてその要因変化は一時的なものなのか恒常的なものなのか。
恒常的なものであれば、その代替手段をどのように確保していくつもりなのかをすぐに検討し、経営計画で修正して下さいと、具体的な要求が始まる。

極めて常識的な対応だ。
だが、多くのベンチャー企業では、このような要求に応えることができない。
なぜなら、もともと経営計画に沿った行動計画など立てていないために、本当の意味での原因分析などできないからだ。

100歩譲って経営計画から行動計画に落とし込んだものを備えていたとしても、その行動計画を本気で達成する意志がある経営者はほとんどいない。
逆に言えば、本気で達成する意志がある経営者であれば、外部要因の変化が経営計画全体に影響を与えるようなズレを生じさせているとすれば、そのような事実には直ちに気がつく。
そして「たかが株主」の指摘を受ける前に、環境変化に対応した経営計画の再編を行い、新たな行動計画にまで落とし込むことに抜かりはないだろう。

このようにして、期末において定量的な予実差異が発生した際、株主からその要因を問われたならば、すでに軌道修正を終えていることからなんら問題なく状況の説明を、高い説得力で終えることが出来る。
「他人」の指摘を受けるほど、本気の経営者は甘くない。

しかし、甘やかされて投資を受けることができた経営者は、経営計画を甘く考え、その未達が続きキャッシュが枯渇し始めたら「追加投資」のおかわりに走るという事もいとわない。
その説明が曖昧でも、銘柄さえ良ければ追加投資も得られたのが2000年代初頭のVCマーケットであったが、さすがに独立系VCはここまで来ると、かなり顔つきが変わり始める。

そして投資を検討する一方で、場合によっては会社の資産査定を始め、関連会社のM&A部隊を送り込んで来ることも普通に見られる光景だ。
つまり、IPOという一番良いシナリオでの回収は諦め、事業がまだ形を保っているうちに売れるものは売り、少しでも投資分を回収しようという態度に出始める会社もあるということだ。

この段階に至ると、投資担当者の追い込みは相当きつくなる。
もはや上辺の要因分析と見通しは通用せず、いつまでに誰が何をするのか、といった行動計画レベルの釈明を求め始め、事業計画の必達か、会社や事業の売却もやむなしの決断を迫ってくる事もあるほどだ。

このような投資家の態度はある意味で当たり前なのだが、銀行系VCは融資の方が本業であることもあり、会社のエクイティにはここまで手を突っ込んでこない事が多い。
しかし独立系VCは違う。
甘い認識で投資を受入れ、なおかつ甘い認識で経営計画の未達を繰り返すと、容赦なく投資分を僅かでも回収しようという動きに出始める。

こうなると、もう株主全体の意志はそちらに流されることになるので、追加投資など口にすることすらはばかられる状況になり、このようにして会社は追い込まれていくことになる。

しかし、このような独立系VCの姿勢は極めて正しい。
なおかつ、まだ甘やかされているほどだ。
余程悪質な場合でない限り、事業を継続させる意志さえ見せていれば、株主として経営者に何らかの訴訟をおこすようなVCなどいないからだ。

では、このような厳しい意見を要求してくれる独立系VCの立ち位置は的を射ているのか、というとやはりそれも、必ずしも肯定しきれないところはある。
なぜなら、M&A部隊を送り込んでは来るものの、事業の価値を理解し、その最大化を図れるような提案をしてくる例など、まずありえないからだ。
結局のところ、不十分な理解のままで投資を決定し、不十分な理解のままで足抜けを図ろうとする姿勢は誰の得にもならずに、双方が無駄な時間を費やし、徒労に終わることが多かった。

独立系VCの厳しい姿勢は、襟を正すという意味ではその直言に耳を傾ける価値がある事も多かったが、やはりビジネスパートナーとして限界を感じるものであったといって良いだろう。

また、別の株主に関する話だ。
独立系VCと同様に、一部の証券系投資家も非常に厳しい態度で経営陣に接してくれる。
特に、最大手のシンクタンク系から1億円を越える投資を受入れた時は、さすがに「VC担当者は能力がない」とは言えないほどに、徹底的な追い込みにあった。

なおかつ投資判断も極めてシビアであり、現実的だ。
資金使途は、意味のある設備投資など形としてあるいは投資効果として確実なものを要求し、経営計画に留まらず、CF計画書や利益計画書の要求は当たり前のレベルである。
工場を建設するとなれば、人員採用計画から営業計画まで要求し、その結果としての事業の立ち上がりがどのように進み、そして損益分岐点をどこにおいているのか。
さらに何年何ヶ月で投資が回収できて利益が出始めるのか、といった精緻な見通しを要求し、その確実な履行を求める。

そこまでしてやっと投資判断の俎上に乗ることができ、担当者が納得をして投資を意思決定する上司に回付してもらうことができるわけだが、もちろんこれで終わりではない。
その内容に一定の合理性が認められれば、次は経営者によるプレゼンテーションだ。
この場合のプレゼンには、経営トップはもちろん、多くの場合これら定量的な資料を実質的に作り上げたCFOの同席も求められる。
そしてその内容に一定の説得力があれば、晴れて投資を受け入れることに成功し、自社の株主名簿に非常に存在感がある会社の名前が加わることになり、そして「無能な」その他多くのVCから、芋づる式で投資を呼び込むことも可能になる。

但し、彼らの追求や要求は極めて厳しい。
事業に対する理解が浅いのは他のVCと代わりはないが、定量的な計画を満たさないのであれば、その代替案の追求をとことんまで行うという意味で、その厳しさは群を抜いている。
また、計画未達の際には役員の責任問題にも踏み込み、決して容赦しない。
減給の要求などは当たり前で、内容が悪く、なおかつ改善計画の内容がスカスカであれば、役員会で公然と、担当役員の更迭を要求することもあるほどだ。

いわば、株式のプロにとっては、投資先は定量的な対象であるということだ。
定性的な価値を深く理解し、その将来性を評価してリスクを背負い株主になったにも関わらず、定量的な結果を出せないのであれば、それは経営者が無能であるという考え方であると言ってもいいだろう。
価値ある事業であり、将来性も在り、ある程度のベースもあるのに成果が出ないのであれば、独立系VCのように会社を売り払うのではなく、経営者を更迭するという発想なのかもしれない。

さすがに経営トップの更迭まではなかなか口にしないが、現場担当の役員については容赦なく減給を要求し、また更迭を要求する姿勢はなかなか凄まじいものがあった。
役員会へは毎回、オブザーバーとしての参加を求め、その発言も議事録に残すことを要求する徹底ぶりである。
その追求は深夜未明に及ぶことも在り、別のコラムで言及したこともあるが、その追求に耐えかねて深夜に会議室を飛び出し、そのまま会社を辞めてしまった役員もいたほどであった。

ここまで投資先の経営に真剣になってくれる株主ばかりであれば、或いは日本のVCマーケットは、もう少し変わった様相を呈していたかもしれない。
ぜひVCの関係者には、参考にして欲しい。

 

ベンチャーと共に歩み、育てる

さて、このような経験を経た上での、大事な結論の部分だ。
発行体でCFOを歴任した立場から見た、本物になる会社の見分け方という話である。
結論から言うと、当たり前過ぎてつまらないと思われるかもしれないが結局のところ、「小さな約束」を守れるかどうか。
これに尽きるだろう。
大きな約束を守れるのは当たり前だが、株主のみならず、自分自身の思いに対して正直な経営者は小さな約束を守ることの大切さを知り尽くしている。

経営とは、自分との約束であり、顧客との約束であり、ステークホルダーとの約束の積み上げだ。
年間3000万円の売上を上げてみせますというラーメン店の店主が、お客さんに美味しいラーメンを提供するという約束事からは絶対に逃げず、目の前の一杯から絶対に手を抜かず、そこに魂を込めるのと同じだ。
このような店主は3000万円の売上を挙げるという目標に真摯であり、その約束が達成できなかった場合、言葉では上手く説明できなくても、なぜその数字に達することができなかったのかを肌感覚で捉える事ができているだろう。

同様に、株主から資本を預かり、その資本を預かった裏付けとなる約束事に真摯である経営者は、決して約束事から逃げない。
単年度だけを見ると数字が行かない場合であっても、その理由を明確に説明し、そして次年度以降にどのようにリカバリーするのか。
必ずそこには、誠実な対応がある。

私はCFOとして何人かのCEOに仕えた。
中には、売上高が5億円ほどのアーリーステージの会社もあったが、その社長の描いていた経営計画は、翌年度の売上が8億円、その次年度が20億円、以降50億円、100億円、200億という、現実離れしたものであった。
従業員数も50人、100人、200人、300人・・・と、小学生が考えたような計画である。

このような計画をリリースし、株主に配っていた会社にCFOとして参加した私の無能さにはとりあえず目を瞑って頂ければありがたいが、常識的に考えてもこの売上曲線はありえない。
私はこの時ほど、日本の投資家のレベルの低さを感じたことはなかった。
万が一需要があったとしても、こんな売上で会社を成長させればキャッシュも人員も追いつかずに破綻することは目に見えている。

この時の社長は結局会社を失ったが、それでも最後まで、「IPOをやってみせる」という旗を降ろすことはなかった。

この話で伝えたいことは一つだ。
世の中には、VC担当者の投資判断能力の低さを逆手に取ろうとする経営者は少なくない。
この時の経営者は、売上が僅か数億円で利益は大幅な赤字であるにも関わらず月額250万円の役員報酬を受け取っていた。
そしてこのような会社に、有名VCが出資を重ね、最終的に10億円を越える資本を経営者に与えた。
それとは逆に、会社は全く業績を伸ばすこと無く、リビングデッドに近い状態に陥っている。

この時の経営者は、4半期ごとの株主に対する予実差異の説明に顔を出すこと無く、その全てを私に任せた。
私がCFOになった最初の年度に株主に約束した売上から、早くも大幅に乖離しており、既に下方修正を考えるべき段階であるにも関わらず経営トップは出てこない。
小さな約束を守るというレベルではなく、約束を履行する意志がない表れと言ってもいいだろう。

ちなみにこの時、株主から厳しい質問を受けた私がどのように応えたとお思いだろうか。
出来るわけ無いと思いながらも会社のために苦しい説明を重ねる。
それも一つの選択肢だが、私はそんなことはしなかった。

「本気でこんな計画が達成できると思っていたのですか?」
「逆に教えてください。私がVCの担当者ならこんな経営者には絶対に投資しま下のせん。何を評価して投資したのでしょうか。」
「現実的な会話をしましょう。弊社の当期の売上はおそらく4億円ほどが現実的な着地点です」
など、遠慮のない直言をぶちまけ、逆にVC担当者に説教をした。

この時、経営トップとはケンカをしていたわけでもなく、既に辞任を決めていたわけでもない。
もちろん、会社が潰れてもいいと思っていたわけでもなく、ヤケクソの責任逃れをしようという意図で発した言葉でもない。

こんな約束事を前提に預かってしまった資本に対して、まずは当たり前の「約束事」のスタート地点を整理すること。
それがCFOとして、その時の自分に出来る最善の策だと考えたからだ。
景気のいい言葉に踊らされて投資をしたVC担当者と、景気のいい言葉を調子に乗ってぶちまけたCEOの行為に責任を取るつもりは毛頭ない。

その上で、出来ることとできないことを整理し、会社として最低限の信頼を確保するためには、CFOである自分の発する言葉にだけは嘘がないようにすること。
そして私の発する分析であれば信頼できるという環境を作ること。

こんな状況であれば、経営トップが事業に専念し、なおかつ自分が説得力を持って矢面に立つには、これ以外の方法はないだろう。
中には激怒しながら乗り込んできたVCもあったが、逆にこんな計画を信用したのか、という私の“マジギレ”に面食らい、本当のところを教えてくださいと冷静さを取り戻した担当者もいるほどだった。

私が着任する前にリリースした計画とは言え、常識で考えればその内容にCFOとして責任を持つと思っていたのだろうが、冗談ではない。
経営者としての信頼の源泉は、繰り返すようだが、「小さな約束を守る」ことだ。
小さな約束すら守れない経営者は、絶対に大きな約束も反故にする。

経営は不測の事態の連続だ。
ある意味で、経営計画など達成できることが前提で会話をすることがおかしいと言っても過言ではないが、大事なことはその約束事が達成できなかった時に、経営トップやCFOが、どのような釈明をするかということだ。

それは投資前に、4半期でいい。
小さな約束を達成できるかどうかを試し、そしてその約束を達成できなかった時にどのような説明をするのか。
わずか3ヶ月でも、その会社のCEOとCFOの姿勢は推し量ることが出来る。
数字を達成することをテストするのではない。
どのように数字の根拠を立てて、そしてどのように達成したのか、あるいは達成できなかったのか。
その分析を聞きながら、約束を守る誠実さがあるのかどうかを見極める事が大事だという意味だ。

逆に3ヶ月程度も待てないという経営者であれば、そんな会社には投資をしてはいけない。
元々無いキャッシュを既に経営に折込むような経営者は、無能である以前に故意犯的な別の意図がある可能性が高いからだ。

どこまで行っても会社経営は、誰かとの約束に誠実であるかということに尽きる。
そして、株主との約束に誠実でない経営者が、顧客に対して誠実であるはずがない。
そんな会社は、例え既にいくらかの投資をしてしまった後でも、躊躇わずに損切りするべきだろう。

どうかVC関係者は、より厳しい目で日本のベンチャーシーンに臨み、経営者を育てるという発想を持って頂ければ幸いだ。

ABOUTこの記事をかいた人

1973年生まれ。とある企業の経営者。 大手証券会社からキャリアをスタートし、広告代理店やメーカーなどを経験する。 CEOを2社、CFOを3社ほど経験し、現在はマーケティングと人材開発を主なサービスとした企業を経営している。