日本の未来を予言する、幼児教育ベンチャーの革命児が徳島にいる。〜しくじりだらけの起業家が伝えたいこと〜 –株式会社リノヴェ 代表取締役社長 柏木陽介氏

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―待機児童問題の深刻化を受け、2016年5月に事業者保育園設置に対する助成制度がスタートした。「自治体直営から公設民営化へ」の流れができる以前から、事業者保育園事業にいち早く取り組んでいたのが株式会社リノヴェである。 事業の柱となるのは病院内・企業内保育園施設・学童保育の設置から運営までのトータルサポート。リノヴェが手掛ける保育園の最大の特徴は、生きた英語が身に付く独自の英語教育が充実している点だ。2014年4月徳島県阿南市に初のインターナショナル企業内保育園を開園し、現在では2018年度開園予定分も含め全国に11保育園を展開している。 「未来を担うグローバル人材を育てたい」と語る柏木氏にお話しを伺う。

■PROFILE
柏木陽佑(かしわぎ ようすけ)
1979年徳島県出身。ワシントン州立セントラルワシントン大学コミュニケーション学部卒業後、米シアトルのJapan pacfic publicationにて記者として勤務。2005年株式会社ジオスに入社し、2009年東京・神奈川地区エリアマネージャーを担った後、2011年株式会社リノヴェ設立、代表取締役就任。
■INDEX
―現場無視のトップダウン経営、完全なるブラック企業 そこで私が得たもの
―安定を取るか、挑戦を取るか 起業への道
―「自分なら何でもできる」勢いで始めた保育事業
―あの頃の自分を支えてくれた一言
―日本初の「英語教育事業所内保育」
―企業主導型保育のビジネスモデルを海外へ 「語学」と「子育て」で日本を元気に

現場無視のトップダウン経営、完全なるブラック企業 そこで私が得たもの

―起業にいたるまでの歩みから伺いたいと思います。前職は大手英会話教室に勤務されていたそうですが。

まず大学時代からお話ししましょう。じつは私、大学3年の時に就活で失敗しました。マスコミ志望で大手代理店などを受けたのですが、箸にも棒にもかからなくて。日本を動かすような仕事をするには中堅私大卒では足りないのがわかり、アメリカのシアトルへ2年間留学しました。まあ学歴を買いに行った感じですね。(笑)

卒業後、マスコミ就職へ箔をつけようとシアトルの小さな出版社に入ったんです。ライターがやりたかったのですが、社長の方針でセールス・翻訳・ライターとあらゆることをやらされました。アメリカで2年も暮らしたお陰で、日常のコミュニケーションには困らない英語力は付いていました。でもセールスの場面ではまったくダメでした。細かいニュアンスなどの部分で、相手の心を動かすようなトークができないのです。周りの日本人を見てもやはり同様で、この時「日本人の英語を何とかしないと」思いました。そんなことがきっかけで教育産業志望に転換しました。

前職である英会話教室への入社動機は経営を学べると思ったからです。シアトルの出版社でずっと社長のそばで仕事をしてみて、自分は経営に関心があることに気付いたんです。入社後すぐに店長になれると聞き、マネジメントが学べると思いました。この時私は25歳。社会人としては出遅れています。経営を志した時、漠然とではありますが「30歳で地元徳島にて起業する」という目標を掲げていたので、少しでも近道をしたかった。また、スタートは東京からという思いもありましたので。

―その後はどのようなキャリアを積まれたのでしょうか?

入社初日に簡単な研修を受け、翌日から現場配属となりました。配属先は栃木県佐野市。自分にとっては縁もゆかりもない場所です。具体的な指示など何もなく、「じゃあ仕事して」の一言。これ本当の話です。

とにかく自分で考えるしかないなと覚悟しました。佐野市の教室は社内で「墓場教室」と呼ばれるところで、最悪の職場でした。前任者が違法行為をし、顧客からの信頼はゼロ。悪い噂が地域に蔓延し、営業成績はどん底状態でした。そんな場所にいきなり放り込まれ、教えてくれる人もいない中での孤独な戦いでした。

―過酷な環境ですね…。

ええ。しかし、さらに大きな問題があって、経営側はそうした現場の実態をまったく分かっていなかったのです。「とにかく成績を上げろ」と激を飛ばすだけで何もしない。何もしないどころか「お前はA級戦犯だと」と成績不振の責任を押し付けられました。それでも全力で頑張りましたよ。考えに考え抜いて、やれることは何でもやった。しかし、もはや一個人の力でどうにかできる状況ではなく、一向に業績は上がらない。もう辞めようかと思いました。

その後、上司に将来について相談したら、いきなり名古屋へ転勤命令が出ました。「明日から名古屋へ」の一言ですよ。退職の件はうやむやになり仕方なく赴任しました。

店長として多少の業績改善はできたのですが、ここでも会社からは戦力外の烙印を押され、2ヶ月で再び異動となりました。最初の辞令が異動前日で驚きましたが、2度目はなんと当日でした。

「4時間後に佐野へ戻れ」

急いで荷造りし佐野へ向かったのですが、さすがにこの理不尽な扱いに怒りが収まらず、着いて早々に辞表を出しました。すると掌を返したように「君ほど我慢強い人間はいない」「失いたくない人材だ」「何でも希望を叶える」など美辞麗句を並べ立てて慰留してきました。これはチャンスと思い東京勤務を申請したところあっさりOKとなり、西葛西へ行くことになったのです。

―退職から一転して留まったのには何か理由がありますか?

基本的には一宿一飯の恩義と思っていましたし、東京に行きたいという思いと最後 にもう一度全身全霊を込めて仕事をしようという意地ですね。

西葛西の教室も案の定「墓場教室」で、佐野・名古屋と同様に前任者の不正みたいな問題があった。でも驚きませんでした。もう慣れてましたから(笑)。 墓場教室を渡り歩いたお陰か、何があっても余裕で対処できるようになり、特殊契約を正常な契約に戻しながら教室の月間売上げノルマを2ヶ月連続で達成。売上高も全国500の拠点中2位の成績でした。翌月も4位となり、私への社内での評価は一変しました。「あの柏木がここまでやるとは」とね。

その後全社員会議に出席した時のこと。社長に呼び止められ、「頑張ってるな」とお褒めの言葉をいただきました。いろいろ話をする中で海外拠点の話題となり、バンコク駐在を命じられました。例によって「3日後に出発」という無茶な命令でしたが(笑)。

安定を取るか、挑戦を取るか 起業への道

―バンコクに赴任されたのも柏木さんの手腕が評価されてのことだと思います。バンコクはいかがでしたか?

当時のバンコクはクーデターの真っただ中で、街のあちこちで銃声が飛び交っていました。情勢が不安定ということで邦人には帰国命令が出ていて、私が着任した頃にはすでに7割の日本人が帰国していました。バンコクの教室は日本人を対象にしていましたので、当然のように生徒数は激減し、売上げもジリ貧状態。赴任して1ヶ月目には、海外50拠点の中で最下位の業績にまで落ち込みました。するとまた例のアレです。「お前はA級戦犯だ!」と社長が責め立ててきました。まあどのような言葉を言われても現状は変わらず、やるしかないなと腹を括りました。人員配置の見直し、プロモーション・マーケティング戦略の再構築などあらゆる手当をし、クーデター収束の翌月には黒字化に成功しました。

―それはお見事ですね。

その後日本に戻りエリアマネージャーに昇進しました。東京・神奈川の100店舗の統括を任されたのですが、ここでもいろいろありました。着任当時、全体で毎月3億の赤字を計上していたんですが、会社はとにかく経費削減を要求するだけで何の策もなし。BtoCでは一定以上の広告宣伝費は必要不可欠なのに、それすら削れと言ってくる。最大限譲歩し月500万の予算を要求するも、それすら却下。仕方なく、部長の命令を無視して自分の裁量で予算を執行しました。すると報復としてなのか、店長に降格となり群馬に飛ばされました。

異動後の1週間で目標数字をクリアし、「部長と私のとちらが会社に必要な人間か?」と上層部に迫りました。最終的には私の言い分を認めて、要求通り広告宣伝費を使えることになりました。

2009年の11月ようやく黒字化に成功するも時すでに遅しで、翌2010年4月に会社は倒産しました。正直、前の会社でもっとやりたかったと思っています。スカイプ英会話の台頭などでフェイストゥフェイスは限界と言われ始めていましたが、まだやれることがある気がしていましたから。

―残念でしたね。その後いよいよ起業へと向かわれるわけですか?

会社倒産後、一旦はMRの仕事が決まったんですよ。年収800万円。まあ、サラリーマンとしては悪くないですよね? 12月に内定を頂き、入社は翌年4月だったので、少しの間徳島の実家に戻ることにしました。久々に兄と再会しこれまでのことを話すと、その体験を徳島で生かしてみたらと言われました。私の兄は町議会議員を務めているのですが、次の県議会選挙出馬を非公式に打診されたのです。突然のことで驚きましたが、議員報酬は魅力だなと思いました。数年議員を務めたら起業の資金が貯められるかなと考えたんです。

サラリーマンの安定を取るか、起業家としてチャレンジするか。

ここが考え時でした。「自分が本当になりたいものは何か?」改めて問いたとき、答えは明確で、それは経営者。 「ブラック企業が大手を振るう英会話教室業界をリノベーションしたい」。それが自分のテーマだと思いました。じゃあ自分に今できることは何かといえば、やっぱり英会話教室しかないなと。

答えが出たら即行動とばかりに、実家の空き部屋を使って英会話教室を開業しました。

「自分なら何でもできる」勢いで始めた保育事業

―スタートは個人の英会話教室からだったのですね。

その後の会社設立までの流れを教えてください。 教室を開くまで人に教えた経験はなかったのですが、教える理論は分かっていたので不安はありませんでした。しばらくは親戚や身近にいる人を対象に教えていたのですが、皆みるみるうちに上達していきました。教えて伸びるのは面白いと実感しました。それが踏ん切りとなったのか、「よし、会社を作ろう」とひらめいたんです。2011年の3月のことですね。

ひらめきの翌日には、もう会社を設立していました(笑)

―柏木さんの行動力には驚かされますね。

確かに教えることは面白かった。しかし、それが自分のやりたいことではなく、早く経営に専念したいと思いました。そこで優秀な講師のヘッドハンティングに動きました。ある大手英会話教室へ調査に行ったところ、いい人がいたんですよ。容姿端麗、人柄も良さそうな女性で、教え方も上手い。この人だと思いました。仕事終わりを待ち伏せして声を掛けたのですが、露骨に不審がられました(笑)。 新手のナンパとでも思われたのでしょう。熱心にお誘いしたのですが、結局断られました。

とにかく先生の採用が急務でしたのであらゆる人に相談しました。するとある方から「いい人がいるから紹介する」との一報が届きました。自分としては「あの女性以上の方はいないだろう」と思いましたが、ある程度の妥協は仕方ないという覚悟をして紹介を受けることにしました。

後日連絡を取ってみたところ、お相手はなんと私が待ち伏せをしたあの女性でした。お互いに運命のようなものを感じ、話し合いの末に来ていただけることになりました。

―人の縁というのは不思議なものですね。それでは保育園事業についてお伺いしたいのですが、英会話教室開設の段階から現在の事業構想をお持ちだったのでしょうか?

私がスカウトした女性講師はとびきりの美人でしてね。教室の目玉として前面に押し出す と、あっという間にたくさんの生徒さんが集まりました。一般的に年に50人を集められればよしとされるところ、一気に180人です。銀行から「四国でもっとも勢いがある英語教室ですね」なんて言われて、この勢いなら何でもやれると思ってしまった。

保育園事業に関する元々の発想は「英語の保育園を作りたい」ということでした。今でこそ保育制度は多様化していますが、当時は認可外か認可保育園しかありませんでした。認可保育園開業には数千万円必要でしたので、アパートを借りて認可外の保育を始めたのです。予算は500万円。勢いだけのスタートでした。

あの頃の自分を支えてくれた一言

―開園されてみて経営はいかがでしたか?

最初から赤字でした(笑)。東京なら待機児童数も多いので園児も集めやすかったのでしょうが、地方にはほとんどいませんから。辛うじて10人ほど集まったのですが、毎月70万円ぐらい赤字が出て、半年ほどで家賃も払えない状態になりました。

保育費は1人月8万円頂いていましたが、それでも30~40人の児童がいて辛うじてペイできるレベル。まあ月に8万円も払える家庭は少ないですからね。

半年で子どもたちの英語力は飛躍的に伸びました。もうペラペラです。狙いが正しかったことを確信しつつも、現実は経営難。保護者の方々に経営が苦しい現状を説明したら、みなさん苦渋の表情でした。でも一人の保護者の方が私を見つめて「これだけ子どもの英語力が伸びてるのだから、何とか続けられませんか」とおしゃったんです。その言葉は心に響きました。

―経営状況をどう克服されたのですか?

兄と母に頭を下げ資金を出してもらいました。兄に株式を50%譲渡する条件で。しかし、半年後再び資金がショート。兄からは事業からの撤退を迫られました。

「今度こそやめるべきか」

何度もその言葉が頭によぎりました。 しかし、子どもたちに目を向けると普通に外国人のネイティブな英語を理解しているんです。2歳・3歳の子どもたちがです。当然、保護者の方々は続けて欲しいと頭を下げて仰るわけです。

「諦めるわけにはいかない」と。

そこで行政書士に相談してみたら、幼稚園を運営している知り合いがいるということで、最終的にその方に引き継いでもらうよう手続きを取りました。

経営を引き継いでくれたのは行政書士さんだったのですが、どれだけ合理化を図っても赤字は解消できないということで1年後には辞めたいと言われました。

―そんな苦難が続く状況下でも諦めないでいられた原動力は、やはり園児と保護者の方々の存在があったからですか?

ええ。そしてなにか方法はないかと調べているうちに、事業者の保育園という制度なら助成金が出ることがわかりました。私が進めてきた英語保育は認可保育園では不可とされるのですが、認可外の場合その適用は受けません。事業者保育園は設備の設置基準は認可外なので、英語保育OKのはずだと思いました。厚生労働省に確認を取ったところ正式に適法の判断が出たので、そこから一気に事業者保育園設置に向け動き出しました。

日本初の「英語教育事業所内保育」

―事業者保育園開設について詳しくお聞かせください。

事業者保育園の認可を受けるためには、まず園児を10人集めないといけませんでした。当初は自社内での開設を目指したのですが、当社は当時従業員数5名でその子どもの数が10人に満たずに断念。そこで徳島県内の企業を飛び込みで回り、英語教育の事業者保育園設置を提案していきました。するとある病院や中堅企業などの合わせて3社から「面白そうだからやりましょう」とお返事がありました。合わせて20名以上の園児が見込めるとのことで、条件はクリア。申請も通りました。全国初の試みということで話題となり、数多くのメディアに取り上げていただきました。

資金繰りでは多少苦労しましたが、病院の院長さんのお力添えで銀行から3000万円の融資を受け、残りを参画企業3社が1500万円ずつ出すというスキームでスタートしました。

―柏木さんが求める英語教育を実践するためには、当然英語力の高い保育士さんが必要になりますよね?

そうですね。全国的に話題となったこともあり、園児・保育士ともに予想を超えた数が集まりました。「インターナショナル保育園」の名称に相応しいようにと外国人を1名置いたのですが、やはり日本人保育士も英語で保育しなきゃダメだということで、カナダへ留学してもらいました。費用は当社負担です。加えて英会話教室のほうで週に4回保育実務に特化した英語教育を行いましてね。1年ほどで全員が完璧なバイリンガルとなりました。

―長年のご苦労がようやく実を結んだわけですね。英語教育という特徴以外に、柏木さんが目指された保育園の理想像はどんなものですか?

事業所内保育園の難しいところはやはり園児が集まりにくいことです。多くの場合、自宅周辺の認可保育園に空きが出ればそちらに移ってしまう。しかし、うちの場合は逆なんです。認可保育園から移ってくるんですよ。理由は明白で本当にいい保育園で、教育効果が高いからです。

保育の質を高めるにはいい保育士が必要。だから給与水準を高くし、労働環境も整備しました。いい保育士さんがいて、最高の英語教育も受けられるとなれば保護者も預けたいと思う。テレビなどで環境が劣悪なブラック保育園の問題が取りあげられてきた分、今はホワイトな保育園でなければ選ばれなくなっています。当社は創業の段階からその部分を徹底的にケアしてきました。だからこそ、保護者・保育士・行政から選ばれる保育園になったのだと思います。

―インターナショナル保育園以降のビジネス展開について教えてください。

当社への認知が広まるにつれ問い合わせが殺到するようになりました。2014年に徳島、2015年に松山と開園。現在は松山だけで5園体制です。また徳島のほかに、福岡、埼玉など他県の企業とも契約しています。

次のステップとして取り組んだのは学童保育です。せっかく英語力がついたのに卒園したら学べなくなるのはもったいないという保護者さんの声が多く、私自身その通りだと思いました。調べてみると、委託の学童保育では習い事はできないことになっていました。しかし、たまたま英語が堪能な職員がいて言語として英語を使うだけという形式ならOKだったんです(笑)。 実際に申請も通りましたし。

委託の学童保育では、行政から年間400~500万円の委託料が入ります。月謝を月3万円程度に設定しても十分やっていけるんですよ。設置基準も厳しくないので、開設から運営まで容易に進められたと思います。

企業主導型保育のビジネスモデルを海外へ 「語学」と「子育て」で日本を元気に

―現政権は女性活躍社会の推進という方針を示していますし、2016年からは企業主導型保育事業の助成が開始されました。いま御社は時流に乗っていると見てもいいのでしょうか?

制度改革についての情報は早くから入っていました。ですから、企業主導型保育に関するマーケティングばかりやっていた気がします。実際「企業主導型保育」で検索すると当社がトップで出てきました。

企業主導型保育では企業保育園の保育士のうち有資格者が50%以上であることが必須です。それは50%未満は保育士資格がいらないということですが、准保育士資格取得は必要となります。当社はインターナショナル保育園として外国人を多く置いていますが、じつは離職率が高く、私はその対策をずっと研究してきました。最大の問題は日本語を上手く話せないことでした。准保育士の資格を取るためには漢字が読めなければなりません。そこで日本語研修を始めたんですよ。今ではみな流暢な日本語を話すようになっています。

―日本人・外国人ともに全員がバイリンガルというのは驚異的です。競合優位性という部分においてはそこが大きな強みですね。

はい。たくさんの企業様が保育園の視察に来られますが、皆さん保育士の語学力に驚嘆されていますね。しかし当社の強みは語学力だけではありません。

私たちが目指すのは、未来を担うグローバル人材をいかに育てるかということであり、いかに天才を育てるかということ。論理的思考を養わせるプログラムの構築などについて、脳科学の見地からアプローチしていくために慶応義塾大学の教授とのプロジェクトを立ち上げます。また、いま当社には300人ほどの外国人の応募がありますが、ハーバード卒や、元アップル社のエンジニアなど優秀な人材が多い。松山の保育園では、英語でプログラミングを教えるというのをすでに始めていますし、またクライアントごとに、記憶力向上に効果があるとされる水泳・論理的思考力が身に付くボルダリングを取り入れるなど総合的に質の高い教育プログラムを構築しています。

―ありがとうございます。それでは最後に柏木さんの今後の展望についてお話しいただけますか?

私にとってこの事業は天命だと思っています。私の母親は昔、保育園の園長を務めていました。父親は会社役員で忙しく、私たち兄弟の面倒をみたのは母でした。園長の激務と3人の子育ての両方をこなすのは大変だったと思います。結果、母は病に倒れました。そんな私にとって保育の問題は他人事ではないんです。むしろ私が解決するよう言われている気がするんですよ。私にとってのライフワークなんです。

中長期ビジョンとしては2020年までの株式上場を目指しています。場所は徳島でなければならないと考えています。確かに待機児童の7割は関東ですし、マーケットを考えても首都圏に本社を置いたほうがいいと言われます。

しかし、日亜化学という発光ダイオードの世界的メーカーが徳島にありますが、そこには全世界から人が訪れています。世界的に見てもそこに来るだけの優れた技術や人員があるからです。当社は幼児教育・英語教育の分野で日亜科学のようになりたいと思っています。

海外へ目を向けると、待機児童が多く英語教育ニーズの高い韓国・台湾や、保育園の仕組みすらないフィリピン・バングラディシュなど、諸外国へのサービスの輸出はぜひやりたい。日本のODAでいま東南アジアに保育園を作るという動きがあって、まさに当社のサービスが活用できるはずです。また徳島に外国人をたくさん住まわせて英語村も作りたい。

これらがすべて実現できたなら、私の最終的な目標である「人材による地方創生と日本創生の実現」が成されるのではないでしょうか。

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ABOUTこの記事をかいた人

樋田 和正

樋田 和正(とよだ かずまさ) 株式会社BNGパートナーズ 執行役員 メディア戦略室長 / エグゼクティブキャリア総研編集長。 長野県出身。大学卒業後、バーデンダーを経て、2014年BNGパートナーズ参画。コンサルティング事業部にてマネージャーとしてIT系スタートアップを中心に多数のCxO採用に携わった後、2017年メディア戦略室長就任。